カモノハシのパンセ4
佐々宝砂
世界は終わってる。破滅も終末も過ぎた。生きてたくないけど生きてる。少なくとも意識がある。対象のない欲望がある。願いが叶わないのは当たり前。この状況下で絶望を歌うのは安易な選択です。絶望だって嘘なんですから。
消費どころかもう絶望すら快楽じゃない私に、いったい何が残されているでしょう? 私にだってわかりませんが、あなたにもわからないでしょう。
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もう絶望も挫折も感傷も嘘っぽくてきもちよくないからやめた!
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私は常にマジメである。パロディを書くときすらマジメである。ちゅうか、パロディってマジメに書くもんだよ。生真面目に、心からの愛をこめて書くもんだよ。愛のないパロディ、悪意のかたまりのようなパロディが私はきらいだ。パロディは愛の発露であるべきだ。パロディを含め、批評というものが本来は愛の発露であることを、私は決して忘れまい。
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いま私たちに必要なのは希望だ。幻に終わるかもしれぬ希望を必要とするほど、現在の私たちは絶望的な状況にいるのである。
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望みを持たなければ、失望はない。
持たなかったものは、失うことがない。
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おそらく、変人を変人たらしめているものは、価値観なんである。自分の価値観を恥じず、どこまで押し通せるか、だ。
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私たちには、何がなくとも想像力だけはあるはず。
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怖いのは科学技術の発展ではない。想像力の鈍磨だ。私はそれがいちばん怖いのだ。
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自分と似たところのある人々との交流は、ものすごくラクだ。何も言わないでそれでも温かい家族の団欒の心地よさ。説明しなくてもわかってもらえる心地よさ。相手の言うことが努力なしにストンと腑に落ちる心地よさ。それは誰にも理解できる心地よさだろう。しかし、その心地よさだけに浸っていては、未来がない。身内だけを愛してゆきつくその先は、紛れもなく衰退と頽廃の袋小路ではないか?
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自分とは違う存在に近づこうとする。自分とは違う存在を理解しようとする。歩み寄ろうとする。私はそういうことのできるひとがものすごく好きで、そういうことを描いた物語がものすごく好きなのだと思う。
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内心で、私は、そんなことすべてどーでもいいと思っている。人をバカにしてるのはそのせいか、だなんて早合点しないでほしい。私が「どーでもいい」と思ってるのは、現実のすべて、だ。あなただけでない、君だけでない、イラクの戦争も、国会も、オケラも、畑も、クリオネも、今ここにある一杯のコーヒーも、私自身も、現実にあるもの/あったものはすべてどーでもいいのだ。私にとって真に重要なのは、星だけである。
だから私は仰向いて歩く。転んでも。
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時に停滞があるのはいたしかたない。見通しが暗いのもしょうがない。そんなこと嘆いても意味がない。なんでわかってくれないの?と訴えたって効果はない。私はただ目を見開いて、いま目の前にあるものをひとつずつ理解しようとする。春盛りの私の庭には、シャガが咲き、タンポポの綿毛が飛び、誰がなんといったって私は天人唐草と呼ぶことにしている青い小さな花が咲き、明るい空には白い太陽がペカァと光っているから星は見えない、でも夜になればまた星が見えるだろう。手が届かないとしても、私たちがそこに行き着かないとしても、私たちの目にはまた星がうつるだろう。
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