永遠の懐胎
鈴木

 一、チアノーゼ

 国道の縁石にふたり座りこんでいたとき、アイビーは「美しいものが好き」って歌った。濡れた唇の築く透き通った楼閣をベンツが突き抜けて、砂塵に僕ら咳き込み涙目になりながら排気ガスでうがいした。朽ちかけの自転車が僕の友達、天国へだって行けるんだ。だけど鉄さび醜いって彼女は言う。

 アイビー、僕が欲しいのは。

 ゲルマニウムに包まれて血液が逆流を始めた。腸を構成する赤が岩紅から鉛丹に変わり、口内で粘膜が蕩けて舌に絡み温かな垢を生み出していく。呼吸を止めて二分、息苦しさに耐えかねて肺を叩くと胃液がこみ上げた。刺激的なシチューの中、ブロッコリーの歯ざわりに僕は恍惚を覚え、排泄の快感へ身を任せて吐しゃした。すえたにおいが体内外に同一をもたらしてくれる。

 アイビー、ヘモグロビンは愛を乗せない。

 塔のてっぺんから見下ろしている人へ尋ねた「なんでそこまで登ったの」どうせ天へ届く前に崩れ落ちることはご存知だろうに。「理由はない」彼は答えた「死んで腐って散るのと同じさ」。やがて光が塔をさらいなにも残らない。僕は左腕を切り落として彼の墓碑を立てた。

 アイビー、僕が欲しいのは、誰よりも純粋な酸素なんだ。

 二、ベクトルモラトリアム(幸せな家庭)

 ぼくはまだちいさいから、まいにちおなじことをする。めのまえには、かんビール、をのせたつくえ、をささえるフローリング、のうえで七さいになったばかりのむすこがねころがっている。「ハヤト」よぶとこちらをむく。つぶらなひとみ、ねむいうそみたいなほっぺ、くちびる。「パパ」というおと、がぼくをつきぬけてかべにつきささりそれをぬきにくる三十さいのつま、とはきのうセックスした。やさしげなえみをぼくにむける。おとといもした。「アナタ」がおとになってぼくをすどおりする。ぼくはまいにちおなじことをする。えみがにくのかたまりになる。

 僕はまだ小さいから、大人へ批判的態度を採るつもりはない。今はただ枯れて誰も見向かなくなった睡蓮を空想するばかりだ。暗雲たちこめる空の下、校舎裏の人工池にひっそりと浮かぶ薄い黄が茶に侵され朽ちていく。僕はその様を倍速で眺めつつ水面に口をつけてうっとりとすする。夢見る。泥と微生物と花の魂の味が満ちて、いつか睡蓮としてピンクになれる。「ハヤト」妄やぶれて父があり。「パパ」僕は睡蓮で、ママの言を改変するならコウノトリの糞だよ。ずっといつまでもパパとママの子供。

 我いまだ胚葉なれば、生来の罪を贖ふこと能はず。羊水で仰臥し膣壁を凝視しつるほどに、剥落する肉片へ欲を覚えしは不自然にや。個の意は即ち生に如くはなく種の意は即ち永続に然り。悠久の構築が目的なればこそ親は子を膣は我を作りしか。我は他と等しく個と種、両の性質を帯ぶる者なり。而して水面なき海にて我の沈思黙考するは、肉片を前に覚えし欲は食と性いずれやとあらむといふなり。

 ぼくはまだちいさい。


 三、恋日譚

 とある惑星の広葉樹林では毛のない羊が喋るという。ここに記すのは木漏れ日を探す旅をする二十三匹の話である。「寒い」「寒いね」「今日は一段と冷える」「今日が今日なのかわからない」
「休憩にしよう」
 リーダー格のカタミミが言った。彼の右耳は狼との格闘で食いちぎられてしまっていた。全滅の危機の中で群れを守り生き残ったこの英雄を同輩は畏敬の念をこめてカタミミと呼ぶ。一同は木の根をかじり始めた。
 木々が絶え間なく屹立し太陽は見えない。地に張り付くものたちは陰に濡れ、でんぷんを含んだ植物が育たず動物多く死んでいった。今では土や木の根を噛みながら、草食動物は稀に見られる日なたの草を、肉食動物は共食いも辞さずとにかく餌を、もしくは行き倒れの遺骸――更に言えばこれを食べ運悪く腹を虫に食い破られた新しい遺骸――を探し誰も彼もさまよい歩くばかりである。
 森が肥大し始めたのは百五十年前、どの種においても昔日の安息を知る長老どもは変化に対応できず若輩の糧となった。そして現在この森でわずかだが最多の数を誇るのは、言語で情報を共有できる毛のない羊というわけだった。彼らは東へ急いでいる。東には大河がある。大河に木は生えない。光がある。沿って下れば尽きることない草原が広がっているという。
 カタミミが顔を上げると、根から離れて座っている一匹の羊が見えた。目を瞑ってなにか呟いている。またか、とため息をついてカタミミは傍へ近づき声をかける。
「ブンガク」
「なんだね、カタミミ」
 まぶたは閉じたまま首を傾げたこの羊は群れ一番の勉強家で、実践的な術策から平和だった時代に栄えた文化まで多岐に渡る知識を持つ。特に後者は毎日が生死の境界線上である羊たちの中からは忘れ去られたものであるため、度々詩吟などする彼はいつのまにか文学そのものとして呼ばれるようになったのだった。
「ブンガク、少しでも空腹を紛らわせないと後がきついぞ」
「ごまかしたところで倒れ伏す時期が変わるわけでもあるまいて。それより極限の飢餓感に陥れば、よい作品を生み出せるように俺は思う」
 ブンガクはまぶたを開けた。
「いい日和だね」
 そして古くから伝わる歌を詠み始めた。
「『私は太陽に恋をした。だってなによりも美しいから。四肢を広げて、できることならむくむく広がって、日差しを独り占めしてしまいたい。私は醜い。しかし――』この世情における生物の在り方を端的に示している名曲だな。とても百五十年前に作られた歌とは思えない」
「ふん」
 相変わらずのけれん味にカタミミは苦笑したが、ブンガクの
「ずっと向こうに誰かいるぞ」
 という言葉に驚き緊張した。
「なんだって。気配は感じないぞ。狼か」
「違うよ。羊だ。私の位置からしか見えない」
 警戒心は解かぬまま発見者をどかせて座ると、遠くいくつもの木と木の隙間からこちらを向く雌羊の顔が覗いた。カタミミは困惑した。実在感がないのだ。
 やけにはっきりと暗がりから浮かんでいる。またこちらを見つめる目が闇と同じ黒で貫かれているし、おまけにまったく動かない。睨みつけても笑いかけてもまるで反応しないのだ。だがなにより不思議なのは、どうも、
「毛が生えている」
 ように見えるのである。
 カタミミはかたわらの羊に視線を戻した。毛はない。
「なんだあれは」
「さあな。だが心当たりはある」
「ほう」
「たぶんあれは光だ」
 またも仰天し身をこわばらせたカタミミをよそにブンガクは語り続けた。
「口伝によれば、光とは形はなく闇と対をなしすべてを照らすものである。あの顔は周囲から如実に浮き上がり、まさに先の通りだ。つまり」
 だがカタミミは聞いていなかった。まず陽光は辿りついても永遠に存在するわけではなく時間と共に形を変えやがては消えてしまう。次に別の群れや動物が居座っていた場合は潔く身を引かねばならない。争奪に使うエネルギーは双方にとって無駄であるからだ。発見次第早急に確保し草を食べ休息し東へ発つ。カタミミの足は既に日の当たる方角へ踏み出していた。ブンガクが鋭く言った。
「待て」
「でかしたブンガク。早く日の当たる場所へ行かなければ」 カタミミの心は日なたへ走っていたが、
「待て。話を聞け」
 再度ブンガクは止めた。
「一体なんなんだ」
「おかしいと思わないのかね」
「なにが」
「まず、あの羊には毛が生えている。はるか昔には少々いたらしいのだが俺は生まれてこのかた見たことがない。まあいい、例があるのだから百完歩ほど譲って存在したとしよう。しかし彼女は一匹のようだ。距離があるとはいえ群れに属しているなら気配くらいしてもいいだろう。この殺伐とした時勢に雌羊が単独で生きていけるわけはないと、我々を束ねる君ならよく知っているはずだが」
「うむ」
 カタミミは思い留まった。確かに気になるところではあるのだ。
「そこで俺は思い至った」
 ブンガクは目を閉じた。
「祖母が口にしていた伝説に」
「文学か」
「文学だね。俺の思索など及びもつかぬ太古の話だ」
「それはもしかして、まだ空が青かった頃のことなのか」
「そうだ。遥か昔、我ら羊たちは地の先々まで見透かせる平原で暮らしていた。外敵も活発で日々が楽だったとは言いがたいが、食物に困ることなく群れもこんなこぢんまりしたものではなかったという。数が多ければ変わり種が出る可能性も高いだろう。その日、産まれた雌に一匹、毛が生えているのがいた。長老たちは渋面を作ったようだ。毛の生えた羊は災いを呼ぶ、いつか追い出してしまわなければ、と。話が漏れたのかどうかは判断しかねるが、やはり幼い頃からなにかと排斥された存在だったようだ。水飲み場で泥をなめさせられたり、眠っているところを蹴られたり」
「考えられんな」
「俺たちは常に死と隣りあわせだからな。いちいち誰かに悪意を向けていては群れ全体に致命的な影響を及ぼす。そもそもの前提が違うのさ。異なる種族と考えてもいい」
「なるほど。続きを話してくれ」
「ついに長老どもの計画が実行に移された。ある夜、彼らはかつてないほど大勢の狼に襲撃された。普通は逃げる際、最も強い羊たちが群れを囲み、弱いものを守るよな。当たり前だがこのときも同じ策が採られた。けれど一つ違った」
「まさか」
「毛の生えた雌羊が輪の外へ押し出された」
「ああ」
「どうせ追い出すならと狼への陽動に使ったのだろう。酷い話だ。かの夜の逃走こそ阿鼻叫喚というのか、相当数の同志が喉笛を噛み切られたらしい。なんとか全滅は免れたらしいが。じゃなきゃ我々はここにいない。そしてともかくも平和な日々が戻り、誰もが惨劇の記憶も忘れかけたときになって、彼女が帰って来た」
「毛の生えた雌羊」
「そう。なぜ生きていられたのか問われて彼女は言った『毛が喉につまるから食べたくないって』。まあ滑稽話さ。だから信憑性は薄い」
「創作なのか」
「どうかな、昔の話なのでね。だが先ほど君に話しかけられるまで瞑想していたのは、ある推測を立てていたからで」
「まだ続きがあるのか」
「むしろここからが問題だと思う。君は考えたことがあるかい。なぜ突如として環境が変わってしまったのか。なぜ空が青と白から茶と緑になったのか。産まれたときから森があったから我々は当然のように考えていたけれど、俺はあの奇妙な顔を見て思い出したのさ」
「なにを」
「例の話は百五十年前の出来事とされている」
 カタミミには話の流れが理解できなかった。沈黙が流れた。ブンガクは眉間に皺を寄せて右目だけ開き、話を再開した。
「彼女の後日談だが、結局は追い出されたらしい。長老どもの意志と頭は固かったのだろうな。そしてこの森林化が始まった」
「この二つが関係あるというのか」
「結びつくんだよ。私が吟じていただろう。君も知っているだろう。あの歌も百五十年前のものだ。いいか、こいつは今でこそ光を失った我々の天空へ思いを馳せる哀歌として認識されているが、想像してみるがいい、うららかな昼の草原で風に吹かれながら、遊び相手のいない孤独な羊が太陽を見上げながら口ずさむ様を」
 カタミミはふと群れを見渡した。自分たち以外は皆ひたすらに根をしゃぶっている。痩せこけた体躯を木にすり寄せて、泣きつくように舌を這わせ歯を立てる。そしてたまに天を仰ぐ。塞がれている。ブンガクの声がカタミミの片耳を包み込む。
「『私は太陽に恋をした。だってなによりも美しいから。四肢を広げて、できることならむくむく広がって、日差しを独り占めしてしまいたい――』」
 森がさざめく。風が吹いている。千切れた葉が一枚、カタミミの鼻を掠めて飛んでいった。彼は行方を追った。葉は木々の間に消え、その先には雌羊の顔が浮かんでいた。
「『私は醜い』」
 頭に毛が生えている。
「『しかし――』」
 皆まで聞かずカタミミは走り出した。自分が急に消えてしまったなら群れに動揺が生じ伝播し肉食獣に位置を知らせてしまうかもしれなかったが、そんなことは、じき念頭から消えた。自分たちが生きているのは彼女のお陰だった。自分たちが死んでいくのは彼女のせいだった。自分たちがしゃぶっていたのは彼女だった。全速力で駆ける。密生する木を避けきれず傷が増えていく。根につまずいて転び立ち上がる。体中が赤く染まりそれでも進むと急に開けた場所へ滑り出た。
 羊が数千匹も寝られるような広場だった。乱立していた木々はなく、だが中央に巨木が一本そびえていた。
 通常の二十倍ほどの太さのそれは頂きの見えないくらい高く伸び、蜘蛛の巣のように分かれた枝がそれぞれ葉を茂らせ広場の空を九分九厘は覆い隠していた。が、一つだけ日差しの舞い込む点があった。そこに彼は見た。幹に埋まった彼女の顔を見た。
 頭蓋には深い皺の刻まれた皮が張り付き、歯茎の剥き出しになった顎がだらりと下がっている。からっぽの眼窩では甲虫どもが蠢いている。血のしたたる足で近づくと後方から獣のうなり声がした。彼女のすぐ前へ達する頃にはもう三匹の狼が獲物に飛び掛る体勢を整えていた。だが彼は一瞥も与えなかった。ただ光だけを見る。
黄色がかった毛が頭に乗っている。
 水上に咲く花に見えた。
「『私は醜い。しかし――』」
 折り重なった牙が毛と右耳のない羊に突き刺さった。
「『美しいものが好き』」
 これが僕とアイビーの出会いだ。


 四、永遠の懐胎

 アイビーと再会したのは、地球が人間を忘れてから二億回ほど公転した夕暮れのことだ。この時節は氷河期の真っ最中、夕暮れといっても空は厚い雲に覆われて白かった。よく雪を降らせた。当時の僕は石英で、思うさま懶惰に暮らしていたのだけれども、言ってしまえば、そのとき抱きとめた雪の結晶が偶然アイビーだったわけだ。
「あら久しぶり」
 六角形の彼女は言った。
「前に会ったのは私が睡蓮だったときね。あなたは人間の子供で、相変わらず一生懸命だって笑ったな」
「僕はいつでも変わらないよ」
 話したいことは山ほど堆積しているのに、軽い言葉ばかり出てきて歯がゆい。雪が降り積む。視界が狭まる。彼女が僕の体温で少し溶けた気がする。
「アイビー、美しいってのは」
「駄目」
 しかしすぐに遮られてしまった。
「分かった気になっているだけ。あなたはまだ小さいから」 そうかもしれない。僕はまだ小さいから。
「そして私も」
 鉱物は氷を溶かさない。辺り一面は闇の漆で塗り固められ、峠の方からときおり狼の遠吠えが聞こえるだけで、あとは二人の声がすべてだった。
「アイビー、胎児が膣に感じるのは食欲かな、性欲かな」
「さてね。それは次までの宿題にしておく」
 彼女はいつもためらわない。
「どうせ私たちは永久に胎児だから」
 雪はひたり増して、ついに視界が塞がれてしまった。
「しばらくこうしていようか」
 どちらとなく発した言葉と共にまどろんだ僕は、数々の夢を巡ってまたここへ帰ってくることもあるだろうと思った。
 僕は右耳を食いちぎられて、欲しいのは純粋な酸素で、睡蓮になりたくて、毎日同じことをして、ときに知ったかぶりをして、だらだら惰眠を貪って、口承をほとんど覚えていて、毛のない羊に噛み付いて、神の逆鱗に触れて消し飛んで、嘔吐にひたすら喜んで、さびた自転車で天国へ昇って、太陽になりたい。
鳴っている。含まれている。僕は続いていく。
 アイビー、君の中で。


散文(批評随筆小説等)  永遠の懐胎 Copyright 鈴木 2007-12-18 00:50:56
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