姉という生き物
亜樹
「お母さんは私よりもあんたのが可愛いのよ」
今年で25になる姉から、こんなメールが届いた。
あまりにひどい頭痛がしたので、返事をしないまま放置して、2週間になる。
そのまま、姉からは何の音沙汰もない。
私の姉は、自由奔放な人間だ。仕事につき、仕事をやめ、また仕事について、再びやめた。
彼女は今、テキサスにいる。
「家を出たかった」というのが彼女の言い分だ。両親は随分反対したらしいが、今年の夏の終わり、彼女は振り切るように日本を飛び立った。
ハンバーグさえろくに焼けない彼女は、私によく不満をもらした。かあさんは私が何もできないとおもっている、と。
「もうすぐクリスマス。こちらは随分飾りが派手だわ」
一ヶ月ほどして、画像つきでこんなメールが届いた。
大きなツリーの前で、彼女は笑んでいる。
彼女は家に連絡は入れていないらしい。そのまま実家のパソコンへと転送した。
母親は喜んだ。
ああ、元気でやってるのね、あの子。よかった。心配していたの。
「日本に帰りたくない。ねえ、あんた、一緒にかあさん説得してくれない?」
私の誕生日、アロマキャンドルの入った小包と一緒に、そんな手紙が入っていた。
胃がむかむかした。いっそ吐かなかったのが不思議だ。ローズの香りは私に合わない。
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確かに、世間一般にいって、私はできた娘さんですねと称される娘だった。
成績は悪くなかった。10本の指に入る、とまでは行かなくても、上のほうから数えた方が確実に早かった。
家事も積極的に手伝った。両親がそろって出かける夜、夕飯を作るのは私の仕事だった。
弟妹の面倒も、よくみていた方だろう。寝かしつけるために読んでいた絵本は、内容を暗記するまでになった。小学生のとき、怪我をして入院することになった私は、母に言った。ゆうきとしずかはまだ小さいのだから、おかあさんは帰って、と。その夜私は古びた病室で、一人声を殺して泣いた。
そうして、世間一般にいって、姉は親不孝な娘と疎まれる娘だった。
勉強が嫌いだった。小学生時代、クラスメートにやけに頭のよい子どもが多かったせいもあるのだろう。姉は妙な学力コンプレックスの塊だった。私が宿題をしているのを、彼女はどこか恨めしげに見ていた。
一切家事をしなかった。勤めにでていた間、毎朝母が弁当をこさえていた。彼女の部屋は、ひどく汚い。カーペットの色が何色なのかさえもわからないようなありさまだった。
弟妹は彼女のことが好きでなかった。彼らの反抗期は、親ではなく姉に向かった。それは今も続いている。
彼女は、おそらく考えたことはない。
私が、姉の妹であるが故に、私にかされていた重圧を。
誰か、はしなくてはならないことだった。姉はそれを放棄していた。おそらくは、はじめから。
そして、姉が棄てていったものを、私は必死に拾い集めた。
その結果、私は、真面目で、忍耐強く、親孝行な娘にと成ったのだ。
そうして、それは今も続いている。
いっそ、私も棄ててしまいたい、とは思う。
けれど、それは思うだけだ。
22年はあまりに長かった。私が身に纏ってきた仮面は、凝り固まってもうはがれない。
棄てたところで、弟妹は拾うまい、とも思う。
ならば、もう、私は死ぬまで、この水銀のような歪みを貯め続けるしかないのだろう。
50を過ぎた両親のことを思えば、それがおそらくはそれが最善なのだ、と思う。
思うように、している。
最近姉から連絡はない。次に連絡があるとすれば、おそらく春だ。
彼女はもう帰ってこないだろうと、私は確信している。
そうして、今から私は、ひどく落ち込むであろう両親を、如何に慰め、宥めるか、その言葉を必死で考えている。