守りたいもの
yoshi

僕の役目は彼女を守ることだ

彼女は毎日目覚めてからすぐに手を洗い、歯を磨く

30分、時には1時間をかけてその行為に没頭する

その間、僕の声は聞こえていない

どんなに大声を出しても聞こえていない

僕は聞こえないのを知りながら、毎日彼女に話しかける

僕の出かける時間が来る

彼女はまだ歯を磨いている

聞こえていないのを知りながら「いってきます」と声を張り上げる

彼女は気の済むまでその行為に没頭し、その後放心したように動かない

お気に入りの窓の下にお気に入りの椅子があり

一日中窓の外を見ながら過ごす

テレビも、ラジオも何もないあの部屋で

彼女は一日中外を見て過ごす

時々、飛んでいく飛行機や蝶々や鳥に声をかける

「こんにちは」だったり「お久しぶり」だったりするが

明るく、健やかな笑顔を持って声をかける

僕の帰る夕方くらいになると、不意に立ち上がり、手を洗い始める

僕が帰ってきても、「ただいま」と声を張り上げても彼女は振り向きもしない

僕は考える

愛情を持って接すると言う事と、人が死なないために正義感からそれを食い止める

という行動の違いを、もしかしたら彼女は察しているのではないか

彼女がそれを察しているかどうか

僕は彼女を愛しているのか

もはやそれはどうでもいい事のように思えた

それがはっきりしたところで、彼女が救われるわけではない事はわかっているからだ

彼女の奇行が始まったとき、僕は恐怖におののいた

僕が彼女を壊してしまったと思った

「心の病気」だと周りは言った

周囲はいつだってやじうまだ

傍観者の癖に意見だけはしたがる、やっかいなものだ

僕は「環境を変える」事で彼女がもとどおりになるなんて そんな安易な事は

ありえないと思った

だって僕は、彼女が壊れるに足る事をしてしまったのだから

反省とか後悔とかそんなものはし尽くした

僕が本当に大切に思っていたものは彼女だったのだと

彼女が壊れたとき思い知らされた

もう何年何ヶ月彼女と言葉を交わしていないだろう

いつかそれが出来る日が来るなんて、今はもう想像すらつかない


今日も彼女は洗面台に立つ

忙しく、リズミカルに歯ブラシを持つ手を揺らしている

生真面目に眉間にしわを寄せて


そんな彼女は

娘の母であり、僕の妻だ







自由詩 守りたいもの Copyright yoshi 2007-10-24 22:25:05
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