ある日
んなこたーない
・冷やしこの夜「風俗現象論序説『亀田史郎』とは何者か?」
ぼくの記憶では、亀田ブームの当初、父親はたしかに異端的な存在ではあったが、
けっしてヒールではなかった。
その態度を問題視する声が高まり、非難に転じていくまでにはいくつかの変移があったはずである。
はじめからヒールで売り出していたら、ここまでのブームになったかどうか、ぼくは怪しいと思う。
こういった一連の動向がすべて演出されたものであるかどうか、
もちろん内部事情に通じていないぼくに分かるはずはないが、
ひとつ明白なのは、ブームが起きるのに、悪役の存在はけっして不可欠な条件ではないということだ。
それはその他のブーム、たとえば「宮崎」でも「健康グッズ」でも、
何でもいいから思い浮かべてみれば明瞭なことである。
もちろん、ナポレオンからライブドアまで、マスコミの論調がコロコロ変わるのは周知の通りで、
今後、これらのブームにたいしてどのようなキャンペーンが展開されるか予断は許さない。
ぼくの見たところ、「風俗現象論序説『亀田史郎』とは何者か?」には、
いくつかの反則技、ないしはスレスレの行為があるが、
悪役の必要性を説く投稿にむかって、厳しい批評や正鵠を射る批判を与えてみてもつまらない。
しかし、「ルール無視、常識破り、非礼を本分とするヤクザまがいの」ヒールといえども、
ヒールにはヒールのルールがある。ヒールのルールを守れないヒールはそもそもヒールではない。
それに、ヒールは最終的に敗北する宿命から逃れられないわけで、
そう考えると、誰にでもその役目を果たせるわけではない。それ相応のセンスと覚悟が必要なわけである。
亀田ブームによって「ボクシング界は奇跡的によみがえった」というのは、明らかな誤認だと思う。
ぼくは熱心なテレビウォッチャーではないが、ボクシングの試合が頻繁に放映されている気配は特にない。
ボクシングジムが以前に比べて活況を呈するようになったかどうかは知らないが、
ぼくがつい先日、友人のボクサーの試合観戦に行ったところ、
客席はほとんど選手の身内親友らしきひとだけで埋まっていた。
プロといえども、チケットノルマがある。かれらが亀田ブームのおこぼれにあずかっている様子は見受けられなかった。
つまり、一過性の軽薄なセンセーションなど、「甦り」の名には値しない。
ここ最近、ダーティな行為によって全国民の耳目を集めたのは、なんといっても相撲界だが、
あのニュースによって「相撲界は奇跡的によみがえった」などとは、よほどの頓馬でないかぎり思い及ばないであろう。
内部に「厳しい批評や正鵠を射る批判」がなければ、何事も結局は凋落していかざるをえないのである。
いくら冷やしこの夜氏が、某・詩の投稿&批評サイトにおけるおのれのダーティぶりに自惚れてみたところで、
それによって国民大衆が目ざめる可能性は低く、
いわんや「『人殺し』で、掟破りの、傲慢かつ不遜な、停滞した平和な空気を荒々しく踏み破る文人」が
登場したところで、あまり多く期待できそうにもない。
一方、「千の風になって」や「求めない」の成功も、沈滞ムードを吹き飛ばすほどの威力は感じられない。
・「ああ、なんちゅう紫の瓢箪だ」
西脇順三郎の著作集が刊行されている。
西脇ほどの詩人になると、あるいはぼくが寡聞にしてか、
表立った批判というのは見受けられない。
田村隆一の「先生」には、何となくぼくはぞっとしないが、
そのアカデミックかつ求道的なたたずまいには、どこか世間から隔絶した感じがあって、
生活の実感から発する批判というものを、受け入れてくれないような気がしてしまう。
詩の無用の長物であることに徹底したひとであったのだと思う。
西脇には「芭蕉・シェイクスピア・エリオット」という題の詩論集がある。
「遠いものを近くに、近いものを遠くに」という西脇の詩論を地で行くようなタイトルである。
・部屋が汚い
部屋が汚い。
「いらないものは全部捨ててしまえ」と言われる。
しかし、何が「いらないもの」なのか判断できないから、この有様なのである。
あれもこれもと捨てていったら、あっという間に部屋はがらんどうになるだろう。
人間はたいがいのものがなくても生きてゆける。屋根でさえ贅沢品である。
いる/いらない、という判断基準はあまりに曖昧にすぎる。
下着や靴下の類の捨て時を見極めるのは難しい。
DVDやCD-Rを処分する方法が分からない。
レコードのジャケットは、ときとして鋭利な凶器になる。
本やCDについている帯は日本独特の文化らしいが、まったくの不要物である。
自分で買った記憶はないのに、日に日にハンガーはたまってゆく。
もうつけないであろう香水は、中身が入ったままでは処分できないし、
かといって、使用する以外に中身を減らすすべがない。
ギターは一本もあれば充分だ。
ネクタイは五本まで許しておこう。
クローゼットに押し込んである、こまごまとした思い出の品は、もういらない、いらない。
結婚でもして、妻が専業主婦になったら、こんな煩わしさから多少は解放されるのかもしれない。
しかし、いらなくなった女房を処分する気苦労を思えば、それもまた考えものである。