ラブアンドピース?いいやラブはピースをも駆逐するのかもしれない。
山田せばすちゃん
まずは小話を一つ。
かつて若かりしころに罪なき党員にスパイの嫌疑をかけ、査問中に死に至らしめたミヤケンこと故宮本顕治日本共産党名誉議長であったが、実は晩年、病に倒れて後、夜な夜な枕元に当時殺した小畑某が立ってミヤケンをじっと見つめてあろうことかこちらにおいでと手招きするようになったのだが、流石はミヤケン、「幽霊になって出てくるとは、貴様それでも唯物論者か!恥を知れ!」と一喝して見事小畑某の亡霊を追い払ったのだという。
クロカンも死んだしミヤケンも死んだ。しかしながら誰もクロカンと革マル得意の「権力の陰謀論」についての詩を現代詩フォーラムに投稿したやつはいなかったし、ミヤケンと日共国際派の暴力革命の放棄について書いたやつもいなかった。誰かがこうやって詩に書き留めてくれただけでも、小田実は幸せだったのかもしれない、本人が今現在どう思っているのかあるいは思うことなどとうにやめてしまっているのかは俺には定かではないけれど。
小田実とベ平連について詩を書くときには、当然のように作中話者は小田実とベ平連に対する立ち位置を明確にすることが必要とされる。それは何も小田実とベ平連に限った話ではなくって、たとえば婚外恋愛のおねえちゃんについて書くときには、婚外恋愛が妻に露見したときにあくまでもそのおねえちゃんと別れる気はないと言い張るか、あっさり別れて妻に平謝りに謝るかを明確にすることはとても大事なことだ。
この詩の中では話者である女性と「あのひと」と称されるおそらくは夫であろう男性では明確に小田実とベ平連に対する立ち位置が違っている。ベ平連を「ヴァンヘイレン」と聞き違え、実は小田実「まこと」をいつのころまでか小田実「みのる」だと思い込んでいた作中話者である「わたし」はかつて若い日に「あのひと」に連れて行かれる形でベ平連のデモに参加し、理論学習も何もないままに反戦とベトナム和平だけを唱えていたのだが、その根拠のなさを「恋心」のようだというのはおそらくそれが本当に「あのひと」への当時の恋心に通底しているからにちがいないし、そんな動機で「運動」に参画している人間を、男女の区別なく俺は沢山見てきた。彼女ら(彼ら)は本当はベトナムに平和が戻ったのか否か、北総の大地が国家権力の収奪から再びお百姓さんたちの手に戻るのか否か、あるいは革命が起きて資本家が倒され労働者階級が搾取の鎖を断ち切れるのか否かについては実はどうでもよく、ただ単に惚れた相手が身命を賭して運動に没入しているのを愛していて、その助力をしたかっただけだったりするのだし、それはそれでとても好ましい生き方であることをおそらくは誰も否定できない、と俺は思う。
「わたし」にはもはや小田実もベ平連も青春時代を最愛の「あのひと」とともに生きたことの象徴でしかなく、実は「わたし」が本当に愛していたのはおそらくは彼が安下宿でぽつりぽつりとたどたどしく弾いて聞かせてくれた「反戦歌」洋ものならジョーン・バエズだったりボブ・ディランだったり、和ものならあるいは岡林信康だったり新谷のり子だったりするのだろう。
サイゴンが陥落してホー・チ・ミン市になったこととか高石ともやが「ホー・チ・ミンのバラード」を歌ってたりしたことは覚えていても、スターリニズムからの脱却を資本主義的要素の導入によって果たしたドイモイの苦闘については「わたし」は知らないし、知らないことをどうこう思うこともない。だからこそ何の屈託もなく
>>アオザイの揺らめきはあのときのまま
などと思えるのに違いないのだ。
そして夫たる「あのひと」へのいまだ変わらぬ「愛情」が
>>ひとびとがそれらを望み続けるのは
>>永遠に手に入らぬものだと認めたくないから
という連に見て取れる。そう、おそらくは運動に挫折してばんばひろふみ/荒井由美の「いちご白書をもう一度」よろしく髪を切って就職して年を経た「あの人」=「夫」はいまだ内心で革命を諦め切ってはいないのだ。
このような「わたし」像を想起させることのできるほどに、この詩は「リアル」であると、そう断言することに俺は躊躇しない。
むしろ俺たちはこの詩にほとんど書かれていない「あのひと」の現在についてこそ詩的想像をめぐらせるべきかもしれないのだが、それはまた別の話になるのかもしれない。