うだうだと月見酒
プル式

多分詩というのは日本人が普段中々言葉に出来ない感情を表現するのに持って来いな表現方法なのだろうとおもう。それは例えば愛について、友情について、死について、人について、政治について、生きる意味について、悲しみについて、今日について、明日について。
最近の若者たちは、一昔前に比べればかなり雄弁になったと思う。しかしそれでもやはり、人前で意見を求められると、上手くいえない、伝えられない、しゃべる事が出来ない、という、日本人の昔から引き継がれる、悪い意味での引込み思案という性質が顔を出す。
先に言うと僕はアメリカの様な、自己強調主義とでも言うのだろうか、が、嫌いである。相手を叩き込むという発想がそもそも嫌いだからだ。もちろん、アメリカ人にだって人の話を諒解して腹の中に一度納めてから、反論や賛成をする人間は居る。それは知っているし、僕の数少ない外人の友人たちはそうである。
話を戻すと日本人と他国の人とでの深層意識調査では、実は日本人は決して自分の考えを持っていないという訳ではない、という事なのだ。むしろ、割と自己意識の強い民族であるという結果が出ていた。つまり、謙遜やらなにやら、というものが、未だに根強くあるという事だと思う。
そこで詩というフィルターを通す事により、感情の発露をスムーズに行うことができる、とまぁ、こういう結論に行き着いた次第である。
日本人は基本的に芸事、祭り事、習い事が好きな民族だと僕は勝手に思っている。言えば実直で生真面目なので、伝統というものをかざすと、それは立派な嗜みとなり、誉とさえなりうる。華道、茶道、舞踊、書道、などなど。書道なんて何が書いてあるのか分からない現代美術じゃないかと、少なからず絵描きとうたっている僕なんかは感じるわけで。
そんな中で、若者に向けて砕けた、ネットという存在が出てきた。ネットは実に便利である。匿名性の高い、守られた空間の中で、実に自由に自己発露が出来る。人の顔を見ないで話も出来れば、絵の具を使えない人でも芸術的な絵を描くことも出来る。見えないで伝えられる、というのは実に日本人向きなのではないだろうか。日本人、実は結構陰口好きだしね。昔から。謙遜、謙虚という言葉の裏には半分として揶揄も含まれている。と、おもう。
ネットで守られた陰口はその影の部分も飲み込み、発露させたという事だ。

おっと。話が見えなくなってきた。

詩と言うのは僕が思うに感情の発露である、と思うのです。その感情を表現する事が苦手な日本人。ネット詩という存在は表現の敷居を低くし、多くの人が楽しめる環境を作りえた、と、同時に、敷居が低くなる事で、今までその敷居を乗り越える程にあふれる感情の強さが弱くなったのではないだろうか、と。
表現がし易すぎて自分の本当に伝えたい内容に行き着く前に表現してしまう。安くなった、といえばそうなのかも知れない。

そうして、中途半端に感情を表現する事を覚えた日本人は街中で抱き合う事も出来ればキスも出来る。人目をはばからずに。大仰に言うなら、殺人だってそれ程の感情が無くたって出来るだろう。
様は使い方、関わり方の問題なのだと思う。

とある南の島の住民が、それまで漁業などで細々と暮らしていたのに、観光業が参入したとたんに、暮らしが裕福になり、島民は太り、漁に出ず、観光客で島は汚れ、観光業は廃れたが、昔の生活に戻る事は出来ない、という事があったそうだ。

日本人としての言葉や、文化をもう少し大切にしてもいいんじゃないか、と最近思う。


本人の自己反省として書く。文脈、誤字脱字、荒などは読み直していないので分からない。多分、何が言いたいのか繋がらないところが在るだろうと思う。書きながら迷ったので。優しく教えていただければ、またはご質問頂ければ、本人、幸いです。



散文(批評随筆小説等) うだうだと月見酒 Copyright プル式 2007-08-01 07:04:01
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