岡山の妻
石原ユキオ

 目を覚ますと、視野いっぱい夫の顔だった。「おはよう」と夫は言った。「おはよう」とヨリコも言った。のどが少し痛むのは、裸で寝てしまったからだろう。夫はきちんと背広を着て、髪を櫛目も鮮やかな七三に整えて、枕元にチョンと正座し、ヨリコの顔をのぞき込んでいた。
 ヨリコは寝転がったまま、枕元の携帯電話に手を伸ばした。ハイビスカスの造花と、サンリオのキャラクターと、それからビーズ飾りのどっさりとついたストラップを引っぱって、たぐりよせる。サブディスプレイで時間を見る。午前六時三分。
「今日仕事早いん?」
「いいや、いつも通り。早く目が覚めてしまったから、早く支度したんだ」
「よう寝れなんだん?」
「うん」
「なんで?」
夫は少し微笑んで、ヨリコの隣を指さした。
「ぼくが寝るはずのところに、その人が寝ているから」
ヨリコは寝返りを打って隣を見た。皺だらけの老人が穏やかな顔で眠っていた。お爺ちゃま、眠るように穏やかに亡くなったのよ、と言いたくなる表情だが、呼吸のたびに鼻毛がそよいでいるので、おそらく生きているのだろう。
 ああ、と、ヨリコは思った。そうじゃ。昨夜は、この人と寝てしもうたんじゃ。ヨリコは茶色いオカッパ頭をがしがし掻いた。
「君は、ときどきこういう過ちを犯すね」
夫が言った。
「ひと月ほど前は、全身イレズミの男と一緒に寝ていたね」
ヨリコは匍匐前進で少しずつ布団から這い出しながら言い訳を考えた。
「三ヶ月前は、『琴欧州』の浴衣を着た太った男と一緒に寝ていたよね」
そんなこともあったなぁ。ヨリコはずるずると土下座の態勢に入った。
「その前は、ピザの配達員と寝ていただろう」
そうじゃ、そんなこともあった。なんと物覚えの良い夫だろう。夫はヨリコよりもよっぽど詳しくヨリコの浮気遍歴を記憶している。
「もっと前は……」
 夫が話し続けている内に、老人は目を覚まし、よっこらしょと布団から出て、天突き体操を始めた。夫は過去四年、つまり結婚して以来ヨリコが家に連れ帰った男たちを覚えている限り(つまり全員分)語り続けた。その間、ヨリコは土下座し続け、土下座の形のまま再び眠りに落ちていった。

2005/05/31


散文(批評随筆小説等) 岡山の妻 Copyright 石原ユキオ 2007-07-26 00:14:41
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