シュウちゃん
石原ユキオ
シュウジはもう随分飲んできているようだった。隅っこのテーブル席で、コート着たまんまで細長い身体を丸めて、携帯電話のクルクル部分をクルクルいじっていた。(つか何年前のだよ。いい加減機種変しろ)目はケータイを見ていない。視線は店の壁に掛けてあるビアズレーの絵のあたりに向いているけれど、たぶんそれも見ていない。お得意さんだからあたし出るね、とバイトのまみちゃんに言って、私はカウンターを出た。
「シュウジ」
シュウジは、顔を上げた。にっこりと笑った。いい笑顔。赤らんだ頬にニキビあとが目立つ。また、痩せたかも。シュウジは親指でケータイをいじりながら、
「ビール」
と短く言った。
右手の甲に、赤い擦過傷がある。さっきは気づかなかったけど、壁側のこめかみのあたりに痣を作っている。首にはキスマーク。この人は傷をアクセサリーか何かと勘違いしているんじゃなかろうか。
「シュウちゃん。今日は一滴も飲ませてやんないかんね」
「おや、久々に来てあげたのに説教かい? ここは、説経バーかい? 店を間違えてしまったのかな」
シュウジはイタリア人みたいに肩をすくめてお道化てみせた。
「奥さん泣いて電話してきたよ」
「その話はまた今度聞こう。とりあえず、ビール。ないなら帰るよ」
「話聞いてくれたら店のツケ、全部チャラにしたげるけど?」
「取引ですか。しかし、こっちは分が悪すぎる。他は別としてあなたのとこには大したツケはないからね、ふふふん♪」
じゃあ、さっさと払えよこの死に損ないの文学青年崩れのニート野郎(しかも既婚)!! という言葉は飲み込んで、「ビール、少々お待ちくださいね」とカウンターに引っ込んだ。
冷蔵庫からノンアルコールビールの缶を出して、グラスに注ぐ。本物のビールを、ほんのの一口分混ぜる。(こんなので騙されるかしら。でもフォアグラ状になりきった奴の肝臓をこれ以上酷使したくはないのだ)ミックスナッツを小皿に盛って、シュウジのテーブルへ運んで行った。
「ありがとう、ハルコちゃん」
シュウジは素直に喜んだ。いんちきビールに口をつけて、「新しい銘柄かな」などと言う。私はシュウジの向いに座って、ナッツに手を伸ばした。店が込む時間帯は過ぎた。カウンターには常連さんが一人、カップルが一組。まみちゃん一人にまかせて大丈夫。
「シュウジの新作、読んだよ」
「そこらへんの本屋には入ってないだろう」
「ネットで買えたの」
「へぇ、最近はすごいね。文明の利器、パーソナル・コンピューター、か」
「シュウジって、私生活をネタにするじゃん」
「ええ。才能の乏しいためですよ。この身を切り売りして糊口をしのいでいるのさ」
「小説のために無茶ばっかりやってるように見えるのはあたしの気のせいかな?」
シュウジは、ピーナツを奥歯でカリ、と言わせて、
「そんなの、ハ! あなた以外にもみんながみんな、そう思っていることですよ」
鼻の先で、笑った。
「まだ、何か?」
お道化た調子だったシュウジの声が、外の気温並に冷たくなってる。シュウジはグラスを一気に干した。酒くさいゲップを一つ。計算された下品。
「おかわりを、くれないかな?」
「……あのね」
「続きを言いたいなら、」
シュウジは不意に私のシャツの襟をつかんで耳を引き寄せた。火照った頬がぶつかる。熱い息が耳にかかって(鳥肌が立つ!)私は身を固くした。
「その先は、ベッドの中で、聞いてあげます」
ゆっくりと囁くように言って、シュウジは手を緩めた。すとんと腰が落っこちた。シュウジの笑顔。嘘くさい。泣いているような目。女はそれに騙される。騙されたふりをしてやりたくなる。私はカウンターを見た。まみちゃんがファイティングポーズを取って、「殴れ! 殴れ!」と合図している。思わず吹き出した。ナイス。私の理性は君に負けるほど脆くはないのだよ、シュウジ君。
「あのさ。無理しないで。ドン・ファン気取りはいい加減にしろっての。シュウジがあたしみたいなの全然タイプじゃないってことぐらいとっくに察しがついてますから、残念」
「そんなことはないさ」
「わかるよ。あたし、良い読者だもん。あるいは、誰でもいいのか」
シュウジは胸元から煙草を取り出して、火を点けた。深く吸い込んで、盛大に煙を吐いて、目を瞬かせる。
「シュウちゃん」
「なんだい?」
「今日あんたが死んだら、あたしのせいだって言いふらすよ」
「そうかい」
「当分死ねないね」
「そんなことは、ないさ……」
シュウジは結局、店のテーブルに突っ伏して眠ってしまった。私は店の片付けをしながら、かねてから聞いてあった奥さんの連絡先へ電話をかけた。明け方、イトヨで3000円、といった風の薄っぺらいコートを着た女性が迎えにきた。背の小さい、印象の薄い人だ。油気のない黒髪。タクシーを見送って店に戻ろうとすると、ぱらぱらと雨が落ちてきた。
春近きや、か。
2005/08/16