『最果て』水在らあらあ
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ワタナベさんがこの詩について述べた文章
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=125635を読んだけれど、正直、私には、ワタナベさんがこの詩の何にどう感動したのか、よくわからなかった。だから、私も読んでみようと思う。
「最果て」という言葉から私がイメージするのは、 滅亡後の風景だ。あるいは、未だ何も生まれていない始まりの風景。
この詩に描かれているのは異国の出来事で、私はその場所を知らない。
「巡礼」というと、四国のお遍路さんを真っ先に思い浮かべる。
白装束で杖を突いて歩く姿。
八十八カ所を巡り終えた結願の寺で、涙を流しながら御詠歌をうたう人々の映像を観たことがあるが、あの涙はどういう涙なのだろう。
四国八十八カ所を巡るのは、本来、個人の願掛けよりも、かつて遍路の途中で命落とした人たちを弔う旅なのだと聞いた。遍路とは、社会からはぐれた者、村社会で養われなくなってしまった者がなかば死に場所をもとめて身をやつすものでもあったそうな。
この詩に描かれている巡礼たちは、いにしえの四国のお遍路さんのような、世を捨て世に捨てられた、枯れた姿はしていない。現代の、観光がてら「自分探しの旅」をしている遍路姿の旅人とも違う。この生き生きとした生臭さはどうだろう! 健康な肉体と血と、さらに野心さえも持っているかのような、力強さを感じさせる。まるで伝説の宝探しに来た屈強の若者たちといった趣だ。
この「最果て」とは彼らにとって何であろうか。「最果て」への旅とは何であったのだろうか。
ともかく、彼らは長い道のりを経て、たどりついた。「最果て」にたどりついたことをよろこんでいる。
そして、生きていることを確かめ合っている。暗い荒れた海を前に、火を焚いて、おどって、うたって。
お互いをさがしながら、ついに再会できたよろこびは、お前も生きてたどりついたか、というよろこびだろう。
「血をもらってくれ」
とは驚く台詞だが、これは何かこの地の「巡礼」の儀式のようなものなのだろうかと思う。
あるいは、そう呼びかけずにいられないほどに、そこに至るまでが苦難の道であったのかもしれない、とも思う。どれほどのことがあったのかはわからないが、同じ「最果て」を目指したどりついた同志であるという気持ちとともに、お互いの「生命」を具体的に確かめ合いたいという衝動が自然と生まれるほどの何かが、あったのかもしれない。四国のお遍路さんとは違う、自らのたくましさから出る衝動でもって「最果て」を目指したのであれば。
「最果て」は滅亡後の風景であろうか。それとも、まだ生まれない始まりの風景だろうか。
荒れた海の上の月、そのさらに上の宇宙を見上げて、「心」が「世界」を愛するという、その「世界」とは何を指しているのだろうか。
自分が生かされてある自然、という意味の「世界」なのか、それとも、生き残っていた仲間たち(と自分)とが立ち上げていく「世界」、これから始まろうとする「世界」なのか。
私は、ここで話者の言う「世界」に、「世界を愛して」という言葉に、生々しい人の熱を、野心に似た肉の猛りが込められているように感じてしまう。
この詩は、私には、謎の多い詩だ。
謎であるのは、私の問題なのか、忌憚ないコメントお待ちしています。