私の為に死ねるなら
桜井小春
「ねぇ、あなた、私の為に死ねる…?」
休日の昼のブレイクタイム。君はキッチンで、僕と君のコーヒーを淹れながら、僕に背中を向けたまま言った。コーヒーの良い香りが漂ってくる。コーヒーで頭を覚醒させるつもりだった寝起きの僕は、先に君の質問のほうで完全に目を覚ました。
君と暮らし始めてからもう随分経つ。僕らは時にぶつかり合い、時に傷つけ合いながら絆を深くし、今ではその辺のおしどり夫婦にも負けていない、と僕は思う。
「当たり前だよ」
振られた質問に、僕は「当然だ」といった風に返した。きっと君は笑顔で振り返って「大好き」と言ってくれるのだろう。そう思っていたのだが。
君は僕に背を向けたまま。よく見ると、頼りない肩が小刻みに震えている。僕は吃驚して、その場で固まってしまった。君の涙をこの目で見ることが、怖かったのかもしれない。
「私の為に死ねるなら、私の為に生きてよ…」
思いがけない言葉。
動かなかった体の呪縛が解ける。僕は後ろから君を抱きしめた。腕に、熱い滴がポタポタと垂れる。
君は今、何を想い、誰を想い、この涙を流しているのだろう。こんな時なのに、僕の胸には嫉妬心が湧き上がる。君がどういう傷を負っているのか、僕は知らなかった。それが悔しくて悔しくてたまらなかった。しかし、それは決して聞いてはいけないことのように思えた。
「…大丈夫。君を置いてなんていくものか」
「本当?」
「うん」
「絶対?」
「うん」
君が白い手で涙を拭う。
振り返った時には、笑顔だった。
「ごめんね、コーヒー濃くなっちゃった」
「いいよ。ミルク入れるから」
休日の昼のブレイクタイム。君は何かを隠し、僕は嫉妬心を隠し、お互いに微笑み合いながら、少し濃くなったコーヒーを飲んだ。