殺し屋ボルカ
m.qyi


   殺し屋ボルカ


       車                        ボルカ


       4つタイヤがあって

       ぶうっと、
       走る


まず、車がどんなもんかなんて答えるのはむずかしい。でも、車がどんなもんか、ぼく(ら)は知っている、知ってはいるがよくわからない。お化けだな。お化けっていうのはよくわかんないから、お化けで、わかったら化けもんじゃないだろうけど、お化けのQちゃんもOちゃんもテレビで毎週ばけらったられるからには、身近な友達だ。悪魔とかけっこうやさしくいい奴なんだよなあ。まるで、100円ライターのような。
おかあさんが、魔女だったって知っている?だれにでもお母さんはいる、お母さんはやかましいけれど、鬼婆じゃなくて、魔女だったって知っている?身近にいる優しいお母さんが実は魔女なんだ。ふつーうの主婦なんだって、さ。最近知ったことなんだが、お母さんがどういうものか答えるのはむずかしい。
よく知っている自分の本体だったお母さんでさえ。

それにしても、そんな身近な友達たちの意味をぼく(ら)は考えることはできる、そして、ぼく(ら)は生きることはできる。殺されるかもしれないが生きようとすることはできるだろう、すくなくとも。


  Rotehaendelと殺し屋とマッチと


  注)煙草の名前:Rotehaendel
  殺し屋が煙草を吸うとしたらどんな煙草を吸うだろう。
  「ろーてへんでる」Rotehaendel、
  赤いパッケージに手のひらが確か右から左を差している。名前だから意味はないだろ
  うが、商い或いは交渉という意味なんだろう。パッケージ全体が赤くデザインされて
  いるのでそういう名前なんだろうが、語の成り立ちが「手」からきているので、いか
  にも殺し屋のもつ煙草らしい。パトリシアハイスミスはこの煙草を吸ったんだろう 
  か。フィルターなしのかなり強い煙草。リプレイは粋な紳士だが、この煙草を買う紳
  士はいるまい。ブルーカラーの煙草なのだ。でも、パッケージのデザインとリプレイ
  のイメージはよくあう。あれはRipley underground かThe boy who followed    
  Ripley、 著者はP. Highsmith。多分3年前だろう(現在2004年、もしかしたら
  もう4、5年?)、亡くなった。本(伝記)が出ていたが悲しかったので買わなかっ
  た。買えなかったのか。スイスが好きになった。


さて、実物の殺し屋ボルカの方だが、ぼくの勘違いでなければ街ですれ違ったことがある。その時は、ボルカが殺し屋だとはぼくは知らなかったし、あちらもぼくがマッチ売りの少年だってことを想像だにしなかったはずだ。確かに、殺し屋独特のやさしい目をしている人だったけれどな。喧嘩はしても人殺しはおっかないぼくは批評はしない。つまり、世界のゼンゼン違う二人がすれ違うとそれなりの余韻がのこる、耳に。ぶううう〜ん。

先の話だが、「注」のほうが「本文」より長い、本当はもっと長いのだろう。ぼくの人生だもの。しかし、三つの名詞には裏と表がある。裏がその「注」であれば、「表」は何なんだろう。

二、三年前の五月か六月のブドウ畑の真ん中のことだけれど、


  青鬼と赤鬼の間に鉄の扉一枚


青鬼も赤鬼のことを赤鬼も青鬼のことを知らない。詩の中では鉄の扉は重く厚いが現実の中ではあんなにも薄いのだ。その薄いってことが鉄の扉なんだろうか。ぼくの書くことは、ぼくには解らない。ぼくを書いてはいるんだが、ぼくが書いているかどうか、ぼくは実際にぼくが書いているところを見たことはない。


そいうことがあって、古の妄想が脳みそをゆっくり走っていった;


  画家のフランシスベーコンがアントワーペンの街角で飛加藤とすれ違ったそうだ
  (調伏丸だったかもしれない。)

  雪解ける晴天ルーブルに逃げ込んだ次郎吉は


むかしむかし、ゲシュタルト心理学の応用だよって誰かが言っていたな。キュービズムの発展でピカソが焼いた陶器を見たりしていた。お皿の顔とか。そういえば、このやり方、彫刻ではとくに、絵画でもごまんとある、数えたことはないが。人気のあるもこもこモーアもこのワンパターンではないか。でも心理学の応用だってんだからいわゆるブンガクにだって使えて当然だろう。どうなのか。識者の御意見を伺いたい。心ってのは何かを予想しているものじゃあないか。ブラジャーを逆さに見てもおっぱいのアッタカイふくらみがよく感じられる。フェチな変質者は犯罪者かもしれないが、りっぱな芸術家なんだね。
そういえば、ふら語教師のマリーが言っていたが、北京のAFの前を通ると何の教団かしらないが、すーちゃんごーるじゅうすーちゃんごーるじゅうすーちゃんごーるじゅうと題目が聞こえるらしい。この繰り返しが3回を越して10回くらいになると、あら不思議、ひらがながカタカナになるよ、というのがぼくの説だが、スーチャンゴルジュスーチャンゴルジュスーチャンゴルジュスーチャンゴルジュスーチャンゴルジュスーチャンゴルジュ、そのうち、化けるぜ、入力して見るがいい、崇卯血矢濡語琉儒崇卯血矢濡語琉儒崇卯血矢濡語琉儒崇卯血矢濡語琉儒崇卯血矢濡語琉儒崇卯血矢濡語琉儒崇卯血矢濡語琉儒崇卯血矢濡語琉儒(完)。この教団から黒髪の妖艶な細身の支那服マドマーゼルが鼻にかかった声で「鯖!」とくれば、日本人が「鮪!」と目を丸くしてトルコ人が「ビアあン」と喜んだと言ってもあながち冗談じゃない。いわゆるチチバンが女性を象徴し、フランスを象徴し、外国人のフランスに対するイメージを象徴することは絶対にある。文脈を外してやると見えてくるものがある。ポップなインパクトってのはインダストリアルな構造に逆立ちしたスピリットを注入してやるところにあるのじゃないのか。チチバンにそれほど意味があるなら、車といえば、インダストリーの象徴だ。(そんなにおっきな声でいう事でもなけど。かもしれないよってことなんだ。車がママの魔術だったり、お嬢さんのリップステイックだったりすることは勿論あると思う。説明できないものなんだよ、説明できればお化けじゃないし、お化けじゃなければ騒がなくていいんだもの)

m.qyiクンがなんとなくだが思うことに、客観性とか意味とか言うが、大変主観的な見方しかできない時代(世紀)に育って、相対的な価値観しかもてないぼく(ら)の詩は内面を突き詰めてもいい、というよりそれが当然だ、挙句の果てに、その内面は内容から言えば全くのからっぽなんだってことももっとわかってていい。じゃあ、どうすりゃいいんだろう? そこに共感したんだ。ぶっきらぼうに、「ぶうっ」というのは、こじつけにしたってなんにしたって、たいへんショウジキでジョウシキで、ぼくは偉いと思う。偉いだけじゃない、事実だ。車は実際に殺し屋ボルカの言うように走ってきた、歴史的事実を載せて、拳銃も載せて。

これだけ褒めて一言批判を言わせてもらえば、それで世界平和も何もないもんだろう。本気で言うならそんな簡単なもんじゃないだろう。突き詰めるという事はそんなもんじゃない。優しさだけじゃ、だめだ。(でも、NO.4は好きでした。)

そんな事をぼくが言っているから、殺し屋の弾がこめかみを抜けた。目の裏をさっと白い平和主義が駆けていったが...

(だから)「印象的批評ってのもカテゴリーに入れて欲しかった。」(わけがわかんないだろうが、さ、「ぼくの遺言」)

仕事が終わった殺し屋のボルカは赤い中古のボルボの重いドアを開けてゆっくり乗車すると、バタン、ブウウウ〜ン。

確かにバイオレンスだ。。。

御託を並べているうちに死んでいく人はたくさんいる(ボルカの気持ちがよく解る、殺し屋の気持ちがさ、気持ちの裏の裏の表の裏半分あたりの気持ちがさ。殺し屋と平和主義者はよく似合うなあ「ダイイングメッセージ」)。

たとえば、

ぼくはもうとっくに、ボルカにコメカミを打ち抜かれて、、、


「批評」もバイオレンスだ。ブウウウ〜ン。


「車の批評」もバイオレンスだ。ブウウウ〜ン。詩は感覚だけじゃないんだから...




考えてみれば往生際の随分悪い人生だった−


















                                 (終)


御依頼先(ボルカ):
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=130&from=menu_avg.htm



散文(批評随筆小説等) 殺し屋ボルカ Copyright m.qyi 2004-05-17 10:09:47
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