白いタルタルソースの伝説(2/2)
hon
(1からの続き)
――我々が問題としなければならないのは、二十一世現代の日本における、まさにその場所、その瞬間に手にされた、ある特定のタルタルソースであります。
それは、さる×月×日のことでした。
なだらかな長い坂道と平坦な道とがT字に交わっている路上に、その二人は立っていました。
鬱蒼とした木々に頭上を覆われて、一年中ずっと日当たりの悪い道でした。うす暗い木陰が染みついたような湿った石壁が坂道に沿って続いていて、その陰気な石壁を背景に二人は立っていました。
それは少年と少女でした。
あたりに人影はなく、二人は無表情でぼくの方を見ていました。
ぼくは考え事をしながら歩いていて、すぐそばに近づくまで二人に気づかず、顔を上げた瞬間、唐突に目の前に二人が現れたように感じたのでした。
その唐突さに驚きました。驚きによって通常の感覚が乱れたようでした。空が曇っていた影響もあったのかも知れません。ぼくには急にその二人が、どこから来たのでもなく、どこへ行くのでもない、いつまでもただそこにあるもののように感じられたのです。
ぼく自身についてもまた、他の事物から切り離された存在だと感じ始めました。
それは自分の内から生じて、身体の外まで広がっていくのです。サフランのような胸騒ぎを覚えました。ますます困惑するぼくの気分は、そのとき立っていたT字路さえも、外の世間から隔絶された、どこでもない不定な場へと変容させてしまいました。
見えない事物が影となってあらわれると、聞きつけない言語を喋りながら、通り過ぎて消えていきました。身体はよるべなく立ちつくしたまま、どこか遠くへ流されていくようでした。ぼくのこの混乱は、二人にもいくらか伝播している様子でした。
二人はもじもじと身じろぎをしました。やがて男の子はくすくす笑いはじめ、女の子がつられて笑いはじめました。ぼくも笑っていたのか、……笑っていたような気もします。
どこでもない世界、だれでもないぼくたち。それから笑いがあった。うまく言えないのですが、そこで起こったことをただありのままに語るならば、そういうことになります。
そのとき、ふとぼくの脳裏に浮かんだのは叔父のことでした。
叔父夫婦と隣人の夫婦の間で行われたスワッピング行為。叔父夫婦はとても気さくな良いひとたちで、互いに愛しあって結婚した夫婦でしたが、当時実家に結婚を大変反対された経緯があり、彼らと実家との関係はあまり良好とは言えないものでした。
そして、ああ、スワッピング……それから、あの痛ましい火災事故!
これらもまた当該のケースを考察するうえでの非常に重大なキーワードであり、よく記憶しておいてもらいたいのですが、今はタルタルソースこそが主要なテーマですので、それ以外についての検討は後日へ先送りすることにしましょう。
さて、T字路でぼくらは笑っていました。男の子は天を仰いで笑っていました。女の子は男の子の上着の裾をつかんで笑っていました。そのうち男の子は顔に左手をあてていました。見ると男の子は鼻血を流しているのです。
鼻血。――ぼくはいてもたってもいられなくなったのですが、そこで自分の手にビニール袋を持っているのに気づきました。
ぼくは買い物から帰る途中であり、そこには買ってきた物品が入っていたのです。そんなことも忘れてしまったほど、前後の時間関係からぼくの感覚は切り離されていたのでした。
ビニール袋に手をつっこんで、夢中になって内部をまさぐりました。
ぼくが手につかんだのはタルタルソースでした。
それは、何か特別なタルタルソースというわけはありません。スーパー・サカエで百グラム二百三十円で購入した消費社会にそぐわしい工場大量生産品のありきたりなタルタルソース。
しかし、まさにその時、その空間に存在していた他でもない唯一のタルタルソースにちがいないのです。
これだ、という確かな実感が雷光のように身体を抜けました。
ぼくは震える手で包装のカバーを破り、タルタルソースを取り出しました。
射出可能となった容器の、ふくらんだ腹の中央部分に両手の親指をあてがい、思いきり押しつぶしました。
先端の射出口から勢いよく飛びだした、頬骨のように白いタルタルソースは、明確な放物線を描きながら中空を飛翔していって、男の子の肩口に斜めに付着し、また女の子の右腕にも付着しました。
遠くのどこかで、クラクションの音がひとつ響きました。
ところで、ぼくは、ぼくという人間は、これまで一生を通じてずっとおとなしくて真面目な人間でした。
なんなら近所で聞いてみてください。というか、すでに関係者各位が聞き込みはおこなっているでしょうけど、みんながぼくのことを、おとなしい人だったのに、と証言するはずです。ワイドショーのように。
だって、ぼくはおとなしい人間をずっと演じていました。検事は検事を演じるから検事です。詩人は詩人を演じるから詩人なのでしょう。人生は舞台であり、人間はそれを演じる役者にすぎない、というそのことは、蓋しぼくがおとなしくて真面目な人間であったという現実に他ならないのです。
そして、ぼくはいま被告人を演じています。かつてのぼくを演じていたぼくはもう消えてしまいました。だけど、ぼくは今だって叔父さん夫婦があんな目にあっていい人たちとは絶対に思えません。ぼくがぼくであるという、そのことに何らの変更も加わっていないのです。
おとなしいぼくであった人間がこうして被告人のぼくへとひととびに移行するという、その越境、その逸脱をこそ、ぼくはここで伝えたかった。それこそが、疑いもなくぼく自身に起こった白昼の出来事であり、デジャヴのように白いタルタルソースなのです。
やがて、ぼくは残ったソースをその二人の頭上からどぼどぼと注ぎながら、至極満悦にひたっていました。
そればかりではありません。ソースにまみれながら二人の少年少女は、ああ、二人は終始笑っていたのでした。そう、笑っていたのです。ああ!
平助は自分自身の言葉に衝撃を受けたのか、いきなりバランスを崩してその場に倒れこんだ。
平助は倒れたまま動かなかった。すぐに場内はざわめいて、――タンカを! 運び出して、早く――誰かが誰かを呼ぶ声が飛んでいた。
場内の重苦しい空気は破られていた。傍聴席にただ一人座っていた中年の男はすでに姿を消していた。やがてタンカと職員が駆けつけた。熱意のない職員の手と手が平助の体をタンカにひっぱり上げた。
こうして平助は法廷から退場したのであった。
数分後、別室のソファで平助は意識を取り戻した。
すぐ近くで、髪を茶色に染めた年増女が平助に丸い背中を見せて座っており、机に向かって何かを書いていたが、平助が身じろぎして目を覚ますとそちらへ振り返った。女は黒ぶちの眼鏡をかけていた。
「気がつかれましたか」と茶髪の女が言った。
「つねづね誰かを気にかけておくことがすなわち愛着である、と今おっしゃいましたか」と平助は言った。
「気分はどうでしょう」女は平助の顔色を観察した。「立って歩くことは大丈夫そうですか」
「気分は……そう、フツウだと思う。……そうか、ぼくは倒れたんですね」
「あなた、法廷で倒れて運ばれてきたのよ。歩くのが大丈夫なくらいでしたら、戻られると良いですね。ここでしばらく休んでいってもよろしいですけど」
「いえ、戻りましょう。歩けると思います。どうも、お世話をかけます」
平助は弱々しく身体を起こして、ソファに腰掛けて背もたれの方に身体を傾けた。
茶髪の女はインターホンをつないだ。しばらくすると、作業服を着た二人の男が平助をむかえに部屋へやってきた。平助はどうにか立ち上がって、男たちと部屋から出ていった。
こうして平助は、なかなかそこから抜け出すことのできない拘置所へと、ふたたび護送されていったのだった。
「……うん、分かった。うん、そう言ったら引き返していったんだね。そうか、うん、わしは一時間半ほどしたら帰るから……」
裁判長の深見は電話を切ると、机の上に散らばった書類を大ざっぱに拾いあつめて机の引き出しに放り込んだ。そのとき、若い男がひとり部屋に入ってきた。深見は男に声をかけて、自分は先に帰宅する旨を告げると、業務上の確認をして、いくつか雑務を申しつけた。若い男は、やっておきます、と軽い調子で言った。
深見は帰る前に気にかかっていたことを、やはり訊いてみずにはおれなかった。
「それで霧島君、彼がしつこく繰り返し言っていたタルタルソースとかいうのは、要するになんのことだったか分かるかね」
「あれですか。幸田平助には、自宅の庭に二名の子供を連れ込んで、ドラム缶の熱湯に漬けようとして軽傷を負わせた傷害事件の容疑があります。しかし、タルタルソースうんぬんは調書にも一切記載されておらず、全くそのような事実はないのですね」
「事実はない、か」深見は下唇を右手の親指でこすった。「すると、彼は記憶を捏造して、あるいは別のなにかの記憶を介入させて混同することによって、タルタルソースを二人の子供にぶちまけたのが自分のそのときとった行動であると妄想してしまった。妄想によって、本当の記憶を塗り替えてしまった。そして、その妄想のタルタルソースの件によって自分は今ここで被告人として裁かれているのだと、完全に信じ込んでいた。……と、そういうことなのかね」
「ええ、ええ、つまり、そういうことなんですかねえ」と霧島君は言った。
「やれやれ」深見は右目をしばたいた。「我々は一体なにを長々ときかされていたというのだ」
深見はため息をついて、座っていた椅子を軋らせたのだが、そのとき自分の鼻から一筋の鼻血が流れているのに気がつかなかった。
(了)