危険な話
佐々宝砂
本当のことを言いましょうか。たまには、ね。
私が本当の本当に愛しているものは、ひとつの作品ではなく、ひとりの詩人ではなく、私自身ですらなく、詩そのもの。私という小さな詩人と、私という小さな詩人がものした小さな詩を含む、古今東西の、過去に存在した、現在存在する、未来に存在するであろう、ありとあらゆるすべての詩、そのもの。詩というジャンル。広い広い視野で、長い長いスパンで、私は詩のすべてを愛してる、多少の差はあれど、とにかく、すべて、を。これはほんとは危険な話だから、あんまり言いたくない。でも、たまには本当のことを言わなくてはね。
少しだけ、詩から離れた話をしましょうか。
私はSFが好きで、ちっちゃなころからSFを読んできました。オタクなんて言葉すらなかったころ、本屋でSFマガジン下さいっていうとSMマガジンと間違えられたような時代から、ずっと。私の母の世代のころはそのころよりもっとSFがマニアックだったから、SFマニアだった母はいろいろと苦労したようです。なにしろSFという言葉すら知られていない時代からの読者なのですから。
作品として好きなものもあるし、作者として好きな人もある、でもそれだけじゃ足りなくて、もっとSFを!という切ない思いで本屋を見渡して、ふと目にとまったものがたとえば『アンドロイド・ジュディ』なぞというどうしようもないくだらんものであっても買わずにいられない。SFの香りがちょっとすればなんでも読む。子ども向きでも古くさくても英語でも、とにかくなんでもSFであればありがたがって読む、ということをしなくては日本のドイナカではSFマニアなんぞはやっておれなかったわけです。
SFならば、ドラマだろうがマンガだろうが短歌だろうが映画だろうが同人誌だろうがなんでも読む。それほどSFが好きなのです。私の母は、そういう人です。私はその娘なので、まあ似たようなものです。心の底から「SFというジャンル」そのものを愛しちゃっているのです。
しかるに、詩の場合は、いかがですか。
私は個々の作品への愛を語るときもありますし、作家としての個々人に対する愛を語るときもありますが、基本的には、いつだって詩というジャンルそのものに対する愛を語っているつもり。その愛にだけは、かけらの嘘も含まれない。嘘はないけれど、私の作品自身もまた詩というジャンルに属するのですから、自己愛でないとも言い切れない。でも、詩のために、ひとつの詩ではなく詩というジャンルの未来のために自分を捨てるか、と問われたら、私はあっさり自分を捨てるかもしれません。それほど私は詩に洗脳されているわけで、だからこれは危険な話なんですよ(笑)。
自分が可愛いうちは、あるいは自分の作品が可愛いうちは、「詩そのもの」に対する愛情がまだ不足しているのですよ、そこのあなた。でもこれはとってもとっても危険な話、こどもさんは本気になさらないように、ね(笑