希望と絶望あるいは孔子曰く巧言令色仁希し
構造
仙台には、あるキリスト教の一派が本拠地を置いている。よく国道沿いを
車で走っていると、黒地に黄字の、"神を畏れよ"などの聖書のフレーズが
書いてある看板を見かけるとおもうが、あの看板を設置している一派だ。
もっとも、オウム事件の際に警察庁から地元警察署に問い合わせが入ったとき、
絶対問題ないと警察署が太鼓判を押したほど敬虔実直な宗派である。
中学校の下校途中などはよくその筋の外人がやってきて天国と地獄が大げさに
描かれたカードをくばられたものだ。地獄のイメージはわかりやすく凄惨、
天国のイメージはわかりやすく楽天的。お花畑の中で子供と親が仲良くして
いたり子供があそんだりしている。まあPR用のカードなんだからそういうものだ。
つまりは平凡な人間が考え得る理想というのは大抵が懐古的かつ家庭
的なものである。現実を徹底的に改革したような未来の姿などはうつしようが
ないし、そういうものは大抵SF作家あたりからの受け売りだ。なぜ懐古的に
なっていくのかといえば希望というのは現実からの要請にすぎないからだ。
当然、目標は違えども、その懐古的かつ家庭的な理想というものをキリストが
生まれる五百年前に実現しようとした人間が中国にいる。孔子さんである。
彼が理想としたのは春秋戦国前の周の時代だったから、当然のことながら
身分制度は厳正であって奴隷も当然存在した。陳舜臣さんなぞはこれを
奴隷制度のあった時代を理想とするとはどうしようもない馬鹿だと批判
しているわけだが美化された懐古的理想というのは大抵そういうものだ。
というより理想というものは懐古的側面をどうしても免れぬものかもしれぬ。
まあそう言った側面を除いてもその理想にむけた"道"というものを体系化
したという点で孔子はおそろしく革新的だった。さまざまな政治的な逸話は
あったとしても親孝行をして他人に礼をつくしなさいということだから
われわれの子供の頃から昔話にでてくるような道徳である。論語の現代語訳を
読んでもスラスラと身にはいってしまう。とはいえそれを実現しようと思えば
苦難というか無理難題が伴うもので、おれの高校時代の塾講師などは"論語を
読んで絶望しない人間は論語を読んだと言えない"とまで断言した。これについて
おれも同意する。孔子はしまいには中国に絶望したあげく、中国より人間が素直で
道が受け入れやすいとされていた東洋(日本か朝鮮あたりを漠然とさしたもの)へ
赴こうとすらしている。
後年秦において儒者を徹底して弾圧した法家について、実は彼らは儒家である
荀子の系列である。荀子は性悪説を唱えたが、当時の悪の意味はキリスト教的な
絶対なものではない、単純に人間は欲を猛烈に満たそうとするというだけのことで、
孔子の言う礼節はそれを制御あるいはよい方向に導こうとするものだと考えた。
これはいわゆる経済学における経済人の概念に近いし、道徳的情操論における
アダムスミスの考えにも近い。道徳を押し付けるのではなくって、際限ない欲動に
道徳的な方向付けをしろ、そうすれば結構うまくいくんじゃないかということである。
さてそこで人間が希望という欲動でもって行動しようとするときに絶望は必然である
つまりは永劫ともいえる絶望が待っているわけで、すくなくともそれを世界の次の段階に
向けた永劫の試練として捉えるキリスト教的な考えもよいだろう。とはいえ、果して
それを現実に適用した、文字通りの理想の現実化と捉えるならばその手法が合致して
いるかといえば疑念を投ずるしかない。宗教的な陶酔で突き進んでいるだけとなれば
徹底した現実無視がはじまるだけだからだ。だからぼくはむしろ、楽天的な希望よりは、
絶望への強靭な意志を要求しよう。目を覚ましながら夢を、自分のもっている希望が
どうしようもない業であると厭わしくなったら、それが本物だ。