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葬列の中に見る生の祝祭と、その列にまだ入ることができないが、何かを感じる自分。 そして、生のための詩を書けという激励の批評であった。
葬列は”死を通しての生”を記述することの例示であったのだと思うが、きっかけを受けて記憶をたどってしまった。葬列の意味合いについて書いてみようかと思う。
既に鬼籍にある実家の父の葬式で、自分は泣いていた。泣いて、泣いて、泣いて、本当にどうしようもないほどにハイになり、なぜ父が今逝ってしまうのかと憤りやら、最後に間に合うことができなかった後悔やら、背骨を支えてくれた手を失くした不安感やら、さまざまなものが渾然となって泣いていた。冷静な視線を失う葬儀はあれが初めてのことだった。
葬儀は型にはまった順序をたどる。一様にお悔やみを述べていく参列の人やら、しっかりしなさいと優しい言葉をかけていく知人たち、自分と同じくすっとんきょうなことをやっている家族。坊さんのお経、霊柩車、斎場。怒涛のように流れていく葬儀の中でもみくちゃにされながら、「ああ、父はもう逝ってしまったのだ」と腹の底までずんと納得がいったのは、骨を拾っている最中だった。その瞬間まで、自分は疑っていたのだと思う。閉じられた目があるとき突然開いて、「ああ、」と声をあげるのではないかと。二度と会えないはずなはいのだと。泣きながら、どこかで希望を捨てきれず、形がそこにあり、もう腐敗も始まっているのだと知っていてすら、夢のように父が立ちあがってくるのを夢見ていたのだ。
父は帰らない、この骨が再び肉を纏うことはない、この骨が再び声を発することはない、このほねが再び温かみを得ることはないのだと、骨を拾いながら理解した。
葬儀とは、こういうものなのだと理解をした。
帰らない人を送り、帰らない人が本当に帰らないことを知ることなのだ。
葬列は、生けるもののためで、死者を送らなければならない、死者を愛した人々にその葬送をまっとうさせるためのものだった。
死者を送る人がいるのならば、その葬列を壊すことなく、彼がまったき葬送を行えるように一緒によりそおう。儀礼を行おう。死者へ敬意を捧げ、死者を悼もう。私が父を送ったときに、皆がそうしてくれたように。ともに送ることができたように。
葬列は生けるもののためである。生けるものは死者との決別をなすのである。明日は彼のいない場所で生きるのである。