岡部淳太郎 「夜、幽霊がすべっていった……」に想う  
たりぽん(大理 奔)

文書グループ「夜、幽霊がすべっていった……」
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 夜が重いのは気のせいではない。地球の重力にくわえて太陽が僕たちの影を
地の底へと引っ張るから。かといって夜が地球の自転によってだけ生まれると
は限らない。トンネルや地下鉄、カーテンを引いた部屋、窓のない会議室。光
を拒む場所、または光を失った場所に影としての夜は視覚としての現象だ。夜
の闇にしても窓のない部屋にしても夜の本質は暗さだ。もう一つ、夜がある。
すっかり日が暮れたというのに電灯や各種のイルミネーションで煌々と明るく
照らし出された夜。昼間の太陽に焦がれてひとが作り出した真昼のような夜。
結局、この世界はほとんどが夜で満たされていて、朝や昼の世界は瞬間として
語られるものなのだろう。

 岡部淳太郎の連作「夜、幽霊がすべっていった……」の舞台はこうした数々
の「夜、」に潜む幽霊達との世界だ。幽霊と言ってもそれは単純にエクトプラ
ズムの集合体であるとか、思念波であるとか輪廻転生を実現するための媒体で
あるとか、という疑似科学的であったり理屈っぽい神秘主義のそれではない。

 作品には多くの幽霊が登場する。ある時は誰かにとりつこうとしたり、錯乱
したり、首がなかったりと具体的な姿を見せる。またある時は騎士の物語とし
て仮面をかぶった魔物として、鬼火として、亡者として・・・物語のように紡
がれる幽霊達は、作者の中の不安や葛藤を、網膜を通さずに意識に反映したか
のように鮮明に曖昧だ。それは実体としての存在ではなく、他者には言葉でし
か伝えようのない「夜、」の「、」の先にあるなにか。

 やがて連作は物語を自覚する。超感覚的に察知され記録された幽霊達は今、
物語として自覚される。そして作者は夜の在処をもあばこうとする。漠然と浮
遊するだけだった幽霊は、明確に「死」と結ばれていく。幽霊は存在へと導か
れ、最後に「人間」へとつながっていく。すべらない、歩いていく人間の世界
として示されたものは「道」。

 幽霊という姿を借りて、物語世界をすべっていった作者は結局、人間である
ことの恐怖、人間でないものへの恐怖を乗り越えて「道」の上に肉体の化身で
ある石を置きながら自らの足で歩いていくかのようだ。次々と覚醒する幽霊達
を鎮めるかのように。

 夜は昼や朝の対立概念ではない。夜は常に体内に仕組まれた闇の名前だ。そ
れを孕むのが肉体でそこに住むのが幽霊だとすれば、作者は外界に見立てた
「夜」をさまよい、肉体の歩く「道」に続く「夜」を読者に示したのかも知れ
ない。
 
 夜が重たいと感じるとき、それは幽霊を地縛する「夜」の重力。そしてとぼ
とぼと歩いていけ。さまようかのような遠い迷子の道を。


(文中敬称略)



散文(批評随筆小説等) 岡部淳太郎 「夜、幽霊がすべっていった……」に想う   Copyright たりぽん(大理 奔) 2007-05-23 23:36:28
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