家族カンバセイション (前編)
たたたろろろろ
「記憶喪失、」
真知子は確認するように、しかし断定形で言った。
「ええ。記憶喪失、されていますね。息子さんは」
担当の医者である小野は、一度ちらと真知子の隣に寝そべっている壮太を見て、再び真知子に視線を戻し、気の毒に、という顔で続けた。
「といっても、通常の、皆さん想像されるような記憶喪失とは少々性質が異なるのですが」
「どういうことですか?」
「ええ、非常に珍しい例なのですが」
精神科医の小野は、壮太の母である真知子に、息子の記憶喪失がどのようなものであるのかを神妙な面持ちで説明した。それは確かに、我々が通常、想像する記憶喪失とは異なったものであった。
一般に記憶喪失とは、韓流ドラマで馴染み深いように「此処はどこ私はだぁれ貴方はどなた」的な、冬のソナタ的なものであり、つまりは自分や他人、物事などについての情報を失ってしまうものである。しかし、壮太のそれは違った。壮太は、生まれてからの全ての記憶、学んで身に付いたこと等を全て失い、脳に関しては生まれたての赤子同然になってしまっていたのだった。
更に追い討ちをかけるようにショッキングなことに、この症状から記憶を取り戻したというケースはまだ一度も確認されていないのだという。小野は、全力を尽くしますが、といったがその後は言葉を濁した。まあ、無理だという事だろう。真知子は小さく震えている。
「お母さんもお気づきだとは思われますが、これは非常に大変なことです」
確かに、この病院に来るまでの間に真知子は事態の深刻さを身に沁みて感じていた。まず、壮太は体に障害を負っている訳でもないのに歩くことが出来ない。180センチメートル、70キログラム近い自分の息子を背負って、タクシーに乗せ、泣き出したらあやす、がらがら&おしゃぶりプレイ、タクシー内で壮太が漏らした小便の始末などしては運転手に平謝りをして、不快な視線を浴びせかけられたのであった。
「一から息子さんを、壮太さんを育て直さなければなりません」
病院の椅子は、背もたれの無いキャスター付きの丸椅子であった。壮太はバランスを保って座ることが出来なかったので、ベッドがあてがわれた。真知子は俯いて、自分の座っている椅子を確認するように、前後に小さくきこきこと動かした。
「お気持ちは解りますが、お気を落とさないように」
壮太はがらがらを自身の小汚いシルバーのロン毛に巻きつけてご満悦の様子で、巨体をばたばた、いや、ばあーったんばったんさせていた。その様子は、壮太の年齢が一桁くらいで、風貌がチンピラのようでさえなければ、微笑ましいものであったが、実際の壮太はどうみても二十三歳のドチンピラであり、小野は、これはこの先お母さんは大変ですよ、というような溜息をついた。そして、私に出来ることなら何でもやります力になりますよ、というように薄く微笑んだ。そのように真知子には見えた。
が、それは違った。小野は不謹慎なことに安堵していたのだ。なんと言っても壮太はここらのチンピラのリーダー的存在のドドドチンピラであり、気も腕力も弱く金ばかり持っているような開業医の小野は度々壮太のチームに「銭をよこせ」「自分、精神科医みたいなあこぎな商売しとんちゃうぞ」「オーノー!!って言いながら十万ださんかい」などとカツアゲされていたのである。壮太は生まれも育ちも北海道であるので、この関西弁のようなものは威嚇のためのものだろう。実際、小野は、恐い恐いと、くわばらくわばらと、時にはオーノー!!と言いながら壮太に金を渡していたのだった。
小野の溜息は、もうあんな恐い目に合わんと済むわあーという安堵の溜息であった。誰が医師・小野を責められるだろうか。そして真知子が、私に出来ることなら何でもやります力になりますよ的なものとして受取った小野の薄い微笑みは、出来ることなら記憶なんて戻ってほしないわーーって、わしがなんもせえへんかったらええねや、うわ、ぼろいやん、あ、せやせや、診察料多めにとっといたろ、という今にも吹き出してしまいそうな満面の笑みを抑えるためのものだったのだ。誰が医師・小野を許せるだろうか。
しかし当然真知子は、小野の本音も、胸中で偽関西弁あそびをしているということも知らないので、小野の微笑みに勇気を得た。よし、がんばろう小野先生もついている、と真知子が診察室の窓から外を見ると、雨が降り始めていた。
タクシーの中は春だというのにひどく蒸し暑かった。壮太は外を流れる風景を見ては、あーあーーなどと白痴のような事を言いながら腕をぶんぶと振りまわし、左手を運転席の後ろのシートにぶつけて痛がり、おお偉い半泣きで我慢したかと思うとまだ振りまわしていたほうの右手を、タクシーには必ずついている運転手と乗客を物理的にも心理的にも断絶するあのアクリル板にぶつけて今度は全泣きになるなど、やりたい放題であった。
真知子はあわてて壮太を宥める。不幸中の幸いか、真知子はガラガラの名手であった。壮太が子供の頃などは真知子のガラガラテクニックがあったので、夜泣きに悩まされて睡眠不足、夫の洋はうるさいうるさいと怒鳴るだけで真知子に味方は居らず、日ごとストレスが溜まってしまって、さあ大変、気付いてみれば一家崩壊の危機、というふうにはならなかったのである。真知子はガラガラの名手。壮太は眠る前にほんの数秒真知子のガラガラを堪能するだけで、夜泣きなぞしなかったのである。
昨晩作った、ペットボトルの中にプラスチックの屑が入っているだけの即席のガラガラでも真知子には充分だった。ブランクも感じさせない見事なガラガラ捌きで壮太はたちまち落ち着いた。
「困ったものね」
「ろまったののねー」
壮太は真知子の持つガチャガチャに両手を翳して、自分にも振らせろ、とゆうようにして言う。はは、あんたのことよチンピラベイビー、と真知子は言って壮太にガラガラを与えた。壮太は大きく伸びをしながら「あんらのろろろきんきらえいびーーー」と言う。何をわけのわからないことを言ってるのよ、ちょっと可愛いじゃないの私の言葉を真似ているのね。
真知子はとても疲れた様子で、しかしやわらかく微笑んだ。