すべての詩人たちへ
ae96

「 すべての詩人たちへ 」



  言葉はつまり「 世界との契約 」だと俺は思っている。

  言葉はつまり俺自身だ。 

  この世に生まれてから今の今まで

  与えられたものが 俺を構成している。

  経験の集大成がペンを握る。

  サインを入れた瞬間 その契約は成立する。


  
  俺という存在が 真実的観点から見て

  リアルなのか バーチャルなのかは

  この際どうでもいい。

  存在理由は解らないから語らない。

  解ったとしても

  語り終えるには100億年以上はかかりそうな気がする。

 
  だから「 今ここ 」を手がかりにして 

  俺は自分の存在をリアルだと信じている。



  今 感じている想いをリアルだと思わなければ

  何を信じて ここに立てというんだ?

  溶け出しそうなほど不安定なこの世界で

  俺だけがリアルだ。

  だってお前が本当かどうかを理解する術など俺は持っていないから。


  詩を書くということは

  想いを音や文字に換え この世に発するということだから

  俺は自分に対して責任を持って真剣に詩を書く。

  自分に対して責任を持って詩を真剣に書くが

  読んでくれる人がどう想うかについては責任は持てない。

  いつどこで誰が読むか想像もできないからだ。

  
  ただ家族や友たちが どう想うかは 気にかけている。

  自分で予想できる範疇に関してはという話になるけれど。

  書きたいことは書くが 言葉には気を付けている。

  間違いなく想いや言葉は波紋する。

  波紋は影響を与える。

  もちろんどんな影響を与えるか予想はする。

  だけどそれは俺の感じる予想に過ぎない。

  ひとの反応は予想の範疇に収まることなどあり得ない。

  やっぱり誰かを傷つけてしまうこともある。

  そういった意味で詩人は周りに対して

  無責任なことを言っているんだと思う。

  ひとの詩を読んで傷つくこともあった。

  けどそれは読んだ俺の責任だ。

  その詩を書いた詩人の責任じゃない。

  何を書いても自由か?

  これは難しいところだけど

  何を書いても自由だと思う。

  本当に心から書きたいと思った言葉であれば。

 

  

  だから 俺は少なくとも 自分自身に対しては

  責任を持って詩を書いている。

  ひとそれぞれ責任についての考え方が違うから

  俺の話をしよう。

  俺は詩を書くとき どんなに悪意ある言葉を使おうが

  ネガティブな表現をしようが

  込める想いは ポジティブだ。

  俺の考えるポジティブに過ぎないけれど。

  
  不用意に ネガティブな言葉は選ばない。

  無責任に ネガティブな想いは込めない。

  ポジティブがいいとかわるいとか

  ネガティブがいいとかわるいとか 言っているんじゃない。

  
  ポジティブとネガティブには裏表はなく 

  その良し悪しを決めるのは時代や環境や万人の常識だからだ。

  一票を投じることはあっても、俺には決めれない。 
  
  ただ ネガティブな言葉の持つ力を 

  おれ自身がコントロールできないことは
 
  知っている。

  俺は凡人だから。

  
  ネガティブはポジティブよりも強く、

  ネガティブな想いを出すことのほうが

  ポジティブな想いを出すことより

  エネルギーを必要としない。

  

  ネガティブの方が強いのだ。

  
  


  

  言葉の持つちからは計り知れない。

  そして シビアだ。

  言葉は宇宙さえも殺す。

  だけど宇宙を産むこともまた

  可能だ。


  神は、なぜ言葉を与え給うたのか。

  その理由は わからない。

  わからないけれど

  その言葉の持つ能力については肌で感じる。


  俺は知っている。

  
  言葉はこの世界との契約なんだ。

  言葉は波紋して いずれおのれに跳ね返ってくる。

  プラスだろうがマイナスだろうが

  還ってくる。 

  
  世界との契約と言ったが

  自分との契約と言ったほうが正しいかもしれない。

  
  ルールとか モラルとか そういうことを言っているんじゃない。

  自分で想い 自分で書くのだから 何を書くかは自由だろ?

  タブーも伝統も糞もない。  形も枠もない。

  今がフリーズして 未来が約束を破ったとしても

  詩人は書きたい詩を書くものだ。

  
  だけど 

  ただ言葉の持つちからを知らないまま

  言葉を振りかざす詩人があまりにも多い。

  
  

  言葉にはせいぜい気をつけな。


  

  
  俺が言っているのはつまり

  
  書き手も読み手も 自分で責任を取れと言っているんだ。

  
  おのれが受け止めれるかどうかって話をしているんだ。

  すべては自分が源で すべては自分に還ってくる。

  絶望を求める者もいれば

  ただただ幸せを求める者もいる。

  死を彷徨うように求める者もいれば

  生を歯を食いしばりながら掴もうとする者もいる。

  
  それがいいとかわるいとかいっているんじゃない。


  その生き方を その言葉を選ぶ自由があるからだ。

  詩人と名乗る者が 詩人として言葉にした言葉なら

  俺は尊重する。

  たとえ反吐がでそうな言葉に出逢ったとしても

  俺は尊重する。

  書きたいと想ったその純粋さを尊重する。 


  尊重はするが 

  
  二度と観ない。

  ただそれだけだ。

  
  ひとは、自分が触れたくない言葉に出会ったとき。


  いろいろ勝手なことを言う。


  放っておけよ。

  
  ごちゃごちゃ言ってる時間があったら

  言葉に責任を持って詩を書けよ。


  だってあんたは詩人だろ?


  批評したい奴はすればいい。 

  ただ愛はあるか?

  愛のない批評は単なるストレス発散だ。

  愛なき批評ほど 哀れなものはない。

  まぁそれもあんたの自由だけどな。

  

  詩はノンフィクションだ。

  言葉は現実化する。

  言葉は空想なんかじゃない。

  言葉は現実なんだよ。

  たとえフィクションの言葉を並べたとしても

  詩として存在しているということは紛れもない事実だろ?

  
  紙をペンで愛撫し 言葉が受胎して詩が生まれる。

  だが 紙をペンで犯し 言葉が受胎したとしても


  詩は生まれる。

  

  それが詩かどうかを決めるのは

  他人ではない。

  おのれだ。

  認めないのも自由。

  破り去るのも自由。

  ただ俺は破られても破られても

  詩を書く。

  認められなくても

  俺は認める。

  それが詩人が詩として産み出したものなら。

  俺は尊重する。

  ただ気に入らないものや

  くだらないものは

  二度と観ない。

  ただそれだけのことだ。

  
  結局 俺は愛を感じるような言葉が好きなんだよ。

  結局 俺は詩を書きたいから書くんだよ。

  
    

  

  今日 好き勝手に 俺の本当の気持ちを書いた。

  言葉や詩に対する気持ちを書いた。

  これはすべての詩人への挑戦状でもあり

  自分自身への戒めでもある。

 

  すべてのライバルたちに

  俺がどんな気持ちで

  言葉を書いているのかを

  知って欲しかったんだ。


  結局 何が言いたかったって?

  
  俺が たまらなく詩が好きだってことさ。





散文(批評随筆小説等) すべての詩人たちへ Copyright ae96 2007-05-23 02:22:46
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