湧き水湧く流れ
錯春
?,河川敷
熱を出した私の連れ合いが熟した果物がその表皮を裂いてガスを放出するような寝息を立てている。
身につまされるような気持ちで風邪を訴える連れ合いに食事と感冒薬と冷えピタと氷枕を与えて、そうしたらもう何もすることがなくなってしまった。
熱をだしている人は、驚くほど素直に生きている。
熱をだして、ふうふうすうすうと、とてつもなくあついものを冷ますように刻む呼吸は、いつかごおごおと海に変わっていく。
荒い瀬を渡って、その深い水底は何故だか河のように淀んで、緑色に濁っている。
私はぼんやりと自分の産まれた、そして育った東北の片田舎の土手を思い出す。町の真ん中には一級河川がねっころがっていて、私は部活の帰り道にかつおぶしのように丸まって、かさかさと叫ぶ草を踏みしめ踏みしめ歩いていた。
私は、生まれて初めて絶交状を貰った日も、無感動にあの土手を歩いていた、ように思う。あの頬をはたくように荒ぶ冬の風。土手は河原側に向かって斜めに削られていて、土手のてっぺんは2人分くらいの幅を挟んで街側へゆるやかに、やっぱり削られていて。
まるで誰かに試されているような気持ちで、決して自分の体が浮き上がらないように気をつけて歩いていた。そこは丁度砂利で出来た平均台が続いていくような非情な形が格好良かった。
土手の水は荒れれば荒れれるほどに淀んで、その緑色を濃くしていき、私の住んでいた地域はカルカヤチョウ、という名前で(その由来は増水の度に氾濫した水がその地域を襲って、水が引いた後は生い茂った萱をからなければならないから)、雨が降ると一切家の外に出れなくなってしまった。
今でこそ滅多に浸水もしなくなったが、台風の晩は用心して家族みんなで二階で寄り添って眠った。どんな晩でもすぐに眠る両親は心強く、同時に取り残された気分になって私は自分が夜の湿気に溶け出していかないように、皮膚の周りにぬいぐるみで堤防を作った。
そして、眠ると決まって河の夢を見た。土手いっぱいにたぷたぷと揺れる水面は葛饅頭のように可愛らしい曲線で、なだめすかす風にさえも身体を震わせている。
私は夢の帳からそっと手を伸ばして、ぐずる河にふれる。ふるふる、ふるふる、と発熱するおとこのひとと同じ温度が爪に入り込む。
ごうごうと鼾をかく連れ合いの河が氾濫をおこして、熱を測るためにリンパ腺へあてられた私の手の平を吸い込む。
私は、連れ合いの
「僕が文学をやめても変わらずに愛してくれる?」
という昨晩の問いを思い出す。
?,病む鼓動
私は、少なくとも詩人ではなかった。私が想像する詩人は、私とは対極にあるものだった。中学生のとき、手帳に初めてメモしたのは銀色夏生さんの詩。私はその詩を好きではなかった。けれど、ことあるごとに眺めていた。今ではその詩がなんだったかは思い出せない。
つい先日、小池昌代さんの詩集を中身もろくに確かめずに購入した。それはインスピレーションを得たから。私は、この人の詩からきっと目を背けたくなる、そんなインスピレーション。
私の直感は、結構当たる。とくにそういうときに限って。同属嫌悪といえば、私のうやむやを一番表せるだろうか。とにかくそういった類のものの影を、文字列のそこかしこにふらふらと漂わせている文体。そして私は目を背けたくなるものほど、目を凝らそうとする性質。
私は、私とまったく対極にいるから、連れ合いの言葉に焦がれた。私には到底真似ができない、そう思わせてくれた。その彼が私に文学をやめても好きでいてくれるかなどと残酷なことを問う。
私は、そこで
「あなたは、それを私ではなくて、自分に一番聞きたいんでしょう」
といったら、そうかもしれない、と黙った。
私は連れ合いに、それきりそのことを持ちかけることはしなかった。
あのとき、私は頷いていてもよかったのではないか。そして、もし頷かなかったとしても良いのではないか。
きっと、そのどちらを選んだとしても、私はそれなりの、レールの先にある、幸福に包まれて眠ることができるのだもの。
詩集を耳にあてて、焼け火箸のようにあつい連れ合いのリンパ腺を見ながら、耳をそばだててみる。
遠く遠くから、河の水滴が淀む音が聴こえる。
それは、記憶。遠い昔に忘れてしまった病気の鼓動。
私は病に臥せっている連れ合いの背中を眺めながら、この記憶すらも狂おしいほど愛おしく思っている自分に恐怖する。
そしてこの愛情が尽きるまでは、詩人にたどり着けないと絶望もする。
私は未だに自分が詩人になりたいと思っているのかすら判らないのに、気儘に絶望を手の平で捏ねる。
?,ミミトサキン
滲出性中耳炎という病気を患っている、いた。遠い昔、まだ水中で目をあけることができなかった頃に。鼓膜の内側に水が溜まる病気で、耳を降るとちゃぽちゃぽと可愛らしい音がする。それはあまりにも可愛らしいので、私はそれが病気なのかどうか判らなくなる。
今ではそれも治り、耳の中の水は消えたのに、たまに、両耳の間から水音が聴こえる。それは赤い南天の実をまぶしたはかない斑の土佐錦で、反り返った尾を揺らしながら、そっと泳ぎ回る。
その土佐錦は、目を凝らすと上京して初めて飼った土佐錦で、それは冬に買い始めて春が来るまでに死んでしまった。
耳の中でその土佐錦は私の思考の澱を食べてどんどん大きくなる。
そのことを連れ合いに話したら
「それは、あれでしょう。足を失った患者が、無くしたつま先の痛みを幻視するという錯覚の一種」
といともカンタンに切り捨ててくれた。
ああ、そうかもしれない、と、感化されやすい私は思う。
そして切り捨てられた私の固くなった角質の部分を齧り、耳の中の土佐錦はまた一回り成長する。
けんもほろろな私を噛みながら、そういうときの土佐錦は決まっていたづらっこそうな笑みを浮かべる。
?,オトコノヒトの魚
うすく、目を開いた連れ合いが
「今、とてもくだらないことを考えてたよ」
という。なにかと聞くと
「いっぱつ抜いたら、風邪のやつもぬけるっていうはなし」
という。
なんだそりゃ、と首を傾げると、また深い眠りの底へコポコポと潜っていってしまった。
連れ合いの胸にこもっていた河が一瞬遠のき、そっと土手をあるべき形に戻していく。
私は、お留守番を命ぜられた爬虫類のようにとぐろを巻いて、自分の堤防を押しやる衝動と激情を押しとめる。
蒸発した体温が噴きだまったタオルケットに手を差し入れ、連れ合いの太腿の中心に横たわる彼に、ゆるやかにふれる。発熱するオトコノヒトの温度が、爪を伝わって、肘を駆け抜けて、私のまなじりまで、会釈をしながら礼儀正しく闊歩していく。
それはあたたかい魚のようなたしかな存在。それは何ものも産まないえんぴつの芯。
体温が上がる連れ合いと、過呼吸になった魚を撫でながら、私は注意深く土手沿いを歩く。
空は曇っていて、見上げると天使の代わりに傷跡ばかりの鎖骨が見えたあの河川。
あの頃の私は、私の中に流れる河を知らず、そしてその源流を突き止める魚をワケもわからず捜し求めていた。
?,群れ
私は、どうあっても、どこかで幸せになっているのは、きっと自分が女だからに他ならない。子宮という空洞があることの苦悩と豊穣。流血の賛辞。そして、幸福そうな顔を鏡に写しながら、健康そうに見えるように化粧をする。
連れ合いの、埋め尽くされた隙間ばかりの丈夫な胴体、そこから聴こえてくる無音。
空洞ばかりのおんなたちから響く音、それを吸い取る隙間を亡くしたおとこたち。
私は、きっと、詩人になることは多分できないだろうけれども、空洞をかき鳴らすことはできる。
高すぎる体温は連れ合いを突き破り、埋まった隙間をほっくりかえして。私は、私の耳の間に流れる清浄な河川敷の水を掬って、その隙間に流し込んでいく。
焼けた石の熱は、赤く透き通って、ぐらぐらと隙間の形を変えて。私の水は東北の片田舎のよく冷えて淀んだ緑色をしていて。焔と湧き水は浸食されることなく、冷たいものは冷たく、焼けたものは焼けたままで宵闇へと消えていく。
みどりごさながらに、火照った連れ合いをかき抱きながら、その光景が銀河のように見えるのを感じる。