「よもつしこめに…」への:追記的私信。
カスラ
もしかしたら完璧に間違っていたのかも知れない。
「千」の風にはならないと宣言し、「浮島」に乗りて自らの言葉の指し示す彼岸へと漕ぎ出したこの人が出会うと信じた、その【約束】を間違えていたのかも知れない。
言葉と宇宙の原始からの共犯関係に気付いた彼の意識は、古代ケルト神話を題材に言霊の魔法をかけた。
古代、詩人が祭祀に関わり、その述べることが神託や予言として、あるいは箴言となったことはゆえのないことではないのだろう。例えば、言葉の不思議は、「暗い」という一単語によって誰の意識にもふっと影がさすという、端的な事実に観察されよう。何故そうなのかは誰も知らない。光あれと言えば、光があった。あるいは、光ではないものがそこにあるから、それは光であると言われ得た。それがどちらであるにせよ、詩人が、ある言葉を感受するということは、ある言葉がそこに在る、それら感受の全歴史、「創成」以来の一切の結晶として、そこに在るということだ。そうでなければその言葉は、そこに現存していない。当たり前すぎるような、しかしこれは法則である。だからこそ、初めてそれを聴いた時から「言霊」という水晶の舟に既に乗せられていた少女は「詩人」になったのだ。詩人とは、言葉と宇宙とが直結していることを本能的に察知している者を言う。
詩人の意志と言語の自律性とは、ある「絶対」の自己表現であることにおいて、同一の現象なのだ。発語がなければ言語はなく、言語がなければ発語もできない。「それを言う者以外の者から、それを聴く者以外の者へ」と、通過してゆく言葉は、自己から発して自己へと還ってゆく。
詩人の欲望は必然的な徒労をいとわず「永遠」と「虚無」とを思考する。そして詩人とは、「永遠」という文字も「虚無」という項目も、誰の辞書にも載っていて、「永遠の謎」あるいは「虚無の深淵」というような慣用句として私たちがそれを用いているにとどまるところの、それらを本当に思惟してしまう人たちでもある。本当は「永遠」と「虚無」とは、市販の辞書には載ってはいない。そして、それこそが、あらゆる誠実な詩人たちの「書く」理由であり、そして同時に「書けない」理由なのだろう。
永遠を「永遠」と、虚無を「虚無」と、辞書に載っているその言葉で発語するしかないという「屈辱」。その言葉は太初からその事態であったという呪縛を前に、マラルメは「一冊の書物」という不思議な直観を受けていた。「書かれている言語は違っても聖書は一つしかないように、世の中には元来、ただ一冊の『書物』だけしか存在せず、その掟が世界を支配しているのではないか。作品と作品との間の違いは、正しい『本文』を指し示すために、文明、時代、文字の時代の長き間にわたって提出された版本の違いのようなものにすぎないのである。」(「詩の危機」)
マラルメは“そのこと”を直観していた。例えば彼が「おまえのやさしい雨に抱かれていたい」と記述する、その事態について、「雨が降っている」「降っている」「It's rain」と、どのように発語したところで各々の発語は、唯一のその「実在」の周囲を様々な角度から旋回しつつ接近し、無限にそれへと近づくが、決してそこへは到達しない。これは、発語という現象が本来的に孕む不可能なのだ。「雨が降っている」と発語しない、認識しないそのことで、雨が降っているという事態そのものに「私」は、なるのだ。
それは同様に、「世界が在る」「私は思う」あるいは「存在者が存在する」という発語以前のその事態について試みられた各々の発語は、それらにとってどの位置にあることになるのか。――これが、マラルメの言うところの「正しい本文を指し示すための」諸々の書物である。そこに語られているのは、決して語り得ない唯一の「本文」、つまり「存在」だ。各々の書物は、「存在」という一冊の書物の、その諸相にすぎない。マラルメの「書物」は、書かれるべくして彼方に在るのではなく、既に、何者かによって「書かれて」、そこに在ったのだ。しかし、それが、発語というそれ自体不可能な手段によって「再現」されようとするために、覚醒しきった意識に繰り広げられる思考の軌跡は、そのまま紙面に写しとられる。永遠を「永遠」と言わず、虚無を「虚無」と言わないために、言葉はそれが出会った全宇宙の振幅をそこに紡ぎ出される。「語り得ないもの」を語り、語るために。太初から書かれて既にそこに在る「書物」が、あたかも新たにこの地上にもたらされたかのように、言葉が、そのうえをなぞってゆく。
ケルトの神話も「水晶の舟」も同じ一冊の書物であったように。そうして今日も「詩」は「存在」のうえに、書かれてゆく。
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