心無い人 心無い言葉
相良ゆう

私は「心無い人」という言葉に疑問を抱いています。
私は心無い人などいないと思っています。

私たちは心無い人なのではなくて、
たまに心無いことを言ってしまうだけの
ただの人なのだと思っているのです


何かの拍子に感情的になってしまって
感情を直接言葉に置き換えてしまったとき

無関心で配慮を忘れた言葉を吐いてしまったとき

冗談のつもりで言った言葉が
相手に冗談として受け取られなかったとき


そんなときに私たちは
「心無い人」になるのかもしれません。

でも言葉をつむいだ当事者としては
心無い人という言葉ははなはだ心外で
理不尽に感じてしまうのでは?

私はそんなつもりで言ったのではないのに・・・

そう思っていても一度誤解されてしまうと
それを解くのは本当に大変で
弁解の意欲も失ってしまって
結局みんな口をつむってしまうのでは?

そんなことを思ったりします。



さて「心無い言葉」という言葉も良く使われるのですが
私は心無い言葉こそ人が傷つく原因であると思っています。


言葉は人を傷つけるのではなくて、
人が言葉によって傷つけられるのでもなくて、
人が言葉によって傷つくのです。


なんだか不思議なことを口走っているように思われるかもしれませんが、
つまりはこういうことなんだと思います。

人によって発せられた言葉は
その言葉を受け取った人によって解釈されて理解されて
その解釈や理解が言葉を受け取った人自身を
励ましたり 傷つけたりするのだ と。

言葉はあくまでも言葉であり
あくまでも道具であるという立場です。
言葉そのものを恐れる必要は無いのです。

けれど人は言葉にすら感情を付与しようとします
事実、人から発せられる言葉には
その人から発せられる迫力を伴っています。
面と向かっての人と人との交渉の場面では
この迫力は感情の起伏として受け取られるのでしょう。
相手にとっては今まさに自分に迫りくるような
大きな力、意志を感じさせるのです。

話は少し変わりますが、
インターネットの世界に存在する言葉は
この迫力を全く持っていないと思います。
絵文字が生み出されたのは
現実世界との乖離状況を少しでも埋めようと
人間の感情が選択した自然な帰結と
とらえることもできそうです。

そう考えると、心無い言葉とは
インターネットという仮想現実世界が実現し
人と人との間接的な接触交渉が極限まで進められた状況におかれて
改めて認識されるようになった自らの言葉のことではないでしょうか?

だからこそ私は
人が言葉によって傷つけられるのではなく、
人自身が自らの解釈によって自ら傷つくと
言ってみたのです。

人にとっては感情的に生きることは自然なことです。
そしてその感情は人を実行へと駆り立てます。

本当に恐ろしいのは
実行の伴った言葉です。
感情は人を実行へと誘うから恐ろしいのです。

そして問題は、現実と仮想現実との間には
あきらかな乖離があるにもかかわらず、
現実と仮想現実とが言葉によって乖離を超えてつなげられ、
その言葉に付与された感情が
現実世界においても仮想現実の世界においても
人を実行へと駆り立てるということです。

私は以前、現実の世界と物語の世界という散文の中で
人の問題的状況の説明に挑戦してみましたが、
それが形を変えて現れているのではないかと思います。

言葉と解釈
人と解釈
解釈とは何かを考えるときが来たのかもしれません。

少々長く、しかもまとまりの無い文章になってしまいましたが、
最期までお付き合いいただきありがとうございます。


散文(批評随筆小説等) 心無い人 心無い言葉 Copyright 相良ゆう 2007-05-03 18:34:45
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