Yes Darling, but Is It Art?
んなこたーない
ぼくは音楽でも文学でも基本的に古いものが好きである。
古いと言っても、生活様式があまり隔たっていない程度の昔、ということで、
一時期興味本位で記紀歌謡の類にも目を通したが、いまでも残っているものはわずかしかない。
古いものが好きというのを、単に懐古趣味であるとか権威主義にすぎないとして片付けるのは性急だと思う。
重層性の欠如は現代芸術全般に見られる傾向ではないのだろうか。
二十世紀は夥しいイズムやエコールを生み出した世紀でもあった。
それぞれがそれぞれの党派と指導者を持ち、それぞれがそれぞれの真理を主張した。
が、それらが証明してみせたことは最終的に残るものは独自の感受性を備えた正真正銘才能のある個人の現実だけであった。
ものの本によるとイギリスの美学者ロジャー・フライは、芸術作品はそれが何をあらわしているか分からない時こそ
より真の美しさを味わうことができると主張したという。彼はミルトンの詩篇と類似した音の配列で、しかも同時に
文として全く意味をなさない音の配列で詩を作り、それがミルトンの作品に劣らず美しいものであると主張した。
これは一種の純粋理論といえる。
「あらゆる芸術は音楽に憧れる」というのは、あまりに言い古されたものだが、
ちなみにブルトンは「……視覚的表現に対してはひとつの価値を認めることを許されるが、
反面、どの表現よりも深く混乱している音楽的表現に対しては、私はその価値を拒むことをやめないだろう。
事実、聴覚的イメージというものは、明瞭さばかりでなく、厳密さの点でも視覚的イメージに劣っているわけで、
一部の音楽狂諸氏にはお気の毒ながら、それは人間の偉大さという観念を裏付けるようにはできていない」と述べている。
シュルレアリスムは広範な影響を及ぼした芸術運動だが、どうも音楽とは食い合わせが悪いようで、それはそれで興味深い。
思えば、ポップス愛好者には、歌詞の意味が頭に入ってくるのが煩わしいとして、洋楽を好むひともいる。
デタラメ英語で作曲してあとから「逆・空耳」で日本語を当て嵌めていくパターンも常套的のようである。
「so it'a a」は「そいつは」に「that's the way」は「ガッツだぜ」になるわけだ。
しかしこの理屈を突き詰めると、自分の知らない言語の詩が母国語で書かれた詩よりも美しいという
倒錯的な結果におち込んでしまう。
ホラー映画などを想起すればたやすいが、ひとを戦慄させるにはそのひとの想像力を刺激するのが一番である。
これはひとを感動させるときも同じである。とすれば、曖昧な部分を残しておくことが得策になる。
しかし、抽象的な語彙や迂遠な言い回しを使えばそれだけで詩が高尚になると錯覚するのは二流詩人の得意技でもある。
また、抽象度が増せば作品の価値と批評的反応が混同される危険性も増す。
何事によらず、必要から遠ざかったものが高級品になるということは事実だが、
どのような意味においても、ぼくは詩人の貴族主義には賛成できない。
ともあれ、芸術はその社会環境を映し出す鏡であるということはかなりの程度まで確かであろう。
現代性を獲得するためのいわば免罪符として、新しい素材やテクノロジーを安直に導入してことたれりとする
無能なひとが大勢いるなかで、それでもなお何人かの優れた感受性の持ち主がそれらを利用せざるを得ないという
衝動に駆られるということは見逃せないところである。
歴史はしばしば逆説を生み出す。
たとえば、通信技術の発達がいかにひとびとのコミュニケーションからの疎外を助長してきただろうか。
個性の蔓延はやがて自己解体に行き着く。そこからエリオットは「荒地」において
断片を集積し、それらを神話的な枠組みのなかに配置したのである。
もっとも今後は「荒地」より「パターソン」の方が評価されるようになるかもしれない。
TEヒュームは「ひとつの芸術はある精神的要求の充足である、したがって、このような型の芸術作品を見るにあたっては
その対象そのものを考えるばかりでなく、それの充足しようとしている願望をも考えなければならぬ」として
「もしその作品がわれわれ自身のとは異なったある願望、ないし精神的要求を充足するべきものであるならば、
それは必然的にわれわれにはグロテスクな、無気味なものに見えざるをえない
――こういうことを、理解しておかなければならぬ」と述べている。
そうしてルネッサンス以降の近代ヒューマニズムの一面性と崩壊を予告したのである。
これはまた一般社会と芸術の乖離の予告でもあった。
「To the happy few」はスタンダールでお馴染みだが、この言い草は反感を覚えさせるものがある。
ピカソでもケージでも吉増でも、あんがい広くに「すごい」と思われているかもしれない。
しかし彼らがピカソやケージや吉増を好きかどうかは分からない。
ピカソの絵の何がいいか分からなくても口では「すごい」ととりあえずは言える。
こういう態度はジャーナリズムの影響もあるだろうが、一種の「後ろめたさ」が隠されているのではないだろうか。
これは逆に「現代詩はツマらない」という非難する側も同じで、
「後ろめたさ」から怨念のごとき感情が芽生えたとしてもおかしくはない。
自己欺瞞がないかぎり、おのれの芸術観に確信を持つことはできない。
そういう幸福な時代は遥か昔のことなのである。
言い足りないし、脈略ないし、これはゴールデンウィーク明けたら全面的に書き直そうと思う。