花に、雨
弓束
淡い桃色を煌びやかなほど咲かせていた桜は、夏を予感し生い茂った若い緑に覆われつつある。太陽が葉に光を落とし、そこからまた空に跳ね返されていく。
そんなうつくしい光景を見つめながら、二、三分前に降った雨の粒を佳代は掌で受け取る。瑞々しい空気で膨張した輝きが目に痛い、と彼女はゆっくり目をつむる。
この桜はわたしよりも随分と長い間生きるのであろう。そして、わたしが死んだその後もきっとすべてを鮮明に覚えてしまっている。例えば、遠い未来に面影でさえ失う風景や、今という時間にわたしがいたこと。
彼女は一人で顔をほころばせ、「うらやましいよ、お前が」とぼやくと桜の幹を優しく撫でた。濃い色を持っている、逞しく健やかな幹はざらついていて、彼女の掌に小さな痛みを植えた。しかしそれは儚く、一瞬のうちに枯れていく。
すとん、と湿っている桜の幹の隣に彼女は座り込む。葉が眩しい太陽を遮り、グラデーションのある影を生んでいる。そこには桃色の残骸が数え切れないほどと、彼女だけがぼんやりと佇んでいるだけだ。
「佳代ちゃん……?」疑問を含んだ声が、彼女の頭上で聞こえ、彼女は反射的に仰向いて声の主を確認する。
容赦ない光の空気の弾丸が彼女の眼球に差し込んでいく。掌を翳してもあまり意味のない壁にしかならず、眉を寄せながら彼女は表情を歪めた。
「何、サト」
サトはもとから疑問を込めた口調で、後ろから見た少女が佳代なのかを問うたらしい。何かしらの用事があったわけではないので、ご機嫌斜めな彼女の声に少しだけ戸惑う。
少しの間を置き、サトは右ポケットに手を突っ込み、ごそごそとその中を探った。耳障りな音は何ひとつ立たないのだが、彼女にはその間がとてつもなく鬱陶しく感じられていた。
沈黙の隙間を潜り抜け、サトが言葉を発する。
「ラムネ、食べる?」
「折角だけど、いらない」
彼女はどうでもいいといったように、すぐさま無愛想な語気でそう返す。声を掛けておいて、いきなりラムネだなんて。彼女はそのことに無償に苛々していた。
サトは残念そうに軽く俯き、ポケットから出したラムネの容器からオレンジのラムネを取り出す。その粒を指先で弄び、ぱく、と三粒ほど口に入れた。
ラムネの容器にはサイダーラムネ、と表記されていて、彼女の口内では酸味のある懐かしい味が――舐めていないにもかかわらず――広がっていた。不意に生まれたその感覚に彼女は口を窄めてみせる。
「サト、飴あげる。桃味嫌いじゃないなら、だけど」
彼女は小さなリボンの形をした飴を掌に載せ、サトに差し出す。サトはそれを拒むことなく受け取り、「ありがと」と心底嬉しそうにはにかんだ。
静寂がところどころ巣食っている会話が、彼女にはどこか苦いものに思えた。口がいちいち重たくて、言葉一つに大きな勇気を要する。
サトもきっと同じなはずだ。彼女はすこし慣れた瞳で緑に覆われた空を仰ぐ。サトは呟くように、飴を転がしているためかごつごつした声で言った。
「ラムネ、貰ってくれないかな」
彼女は首を横に振り、サトと目をあわすことなく静けさを作り上げる。ラムネが嫌いなわけでも、サトが嫌いなわけでも無く、彼女はラムネを拒否していたかった。適切な理由は無いにせよ、その意志だけは彼女の中で固く決められていた。
「なんで」
サトはそう言ったのかもしれない。佳代が首をもたげ、サトの言葉を聞こうとすると空が雨を落とし始めた。また、まるで彼女に加勢してラムネを拒むようだ。桜の下に二人は入りきれなかった為、どちらか一人が別の場所で雨宿りせざるを得なかった。
結局サトが葉桜を出て、近くにあった建物へと駆けていった。雨が地面で跳ねて彼女の靴を濡らし、葉から滴り落ちた水が肩を冷たくしていく。
中途半端に終わった会話に対するサトの気持ちを突きつけるようで、彼女は少し申し訳ないような念に埋まっていった。
「嫌なわけじゃ、無いの」
サトはもう声の届く場所に居ないのに、彼女はぽつんと呟いた。彼女の手は冷えた空気に食われて、温度をじょじょに失っていく。
ぽとん。彼女の足元に散乱した桜の花弁に水滴が落ちる。ほぼ平らになっていた花弁の上で水滴は丸い粒を作り、周りのそれと合わさって水溜りができていく。
彼女は何故か痛くなった胸をきゅう、と押さえ、その様子を降りしきる雨の音たちの中で見ていた。
そう簡単にこの雨は止まないだろう。眩しさをなくした空からはそのことがうかがえた。