虹のかけら(あぶくの妖精の話)
板谷みきょう

 毎日浜辺に、少年が座る様になったのは、いつの頃からでしょう。そして、今日はいつからそこに居たのでしょうか。高く蒼く澄み渡った秋空の下で、少年の体は随分と前からすっかり冷え切っておりました。潮風の囁きや水平線にかかった虹に気付くこともなく、水平線のずっと向こうを眺めながら、少年は膝を抱え小さく丸めた体を凍えさせ、それでも座っておりました。

 「たくさんの人達と同じように、あの娘も幸せになってくれたなら、いっそう僕は、どんなに幸福になれるだろうに……。」

 少年は毎日、海を眺めては心の中で、幾度も幾度も呟いていたのでありました。いつしかその呟きは、少年の気付かぬうちに、願いとなって、静かに海の底深くまで沈んでいったのでありました。

 ところで、みなさんは、あぶくの妖精をご存じでしょうか。あぶくの妖精は、海の底深くに住んでいて、いつも浜辺に白く波を立てては空に昇り、そうして暫くしては雨と一緒に海に戻ってくるものです。そんな毎日でしたので、少年の願いを気付かぬ筈もありませんでした。それに、妖精ですから素直な願いには、心が揺り動かされない訳がありませんでした。
 何とか少年の願いが叶うようにと、妖精界では禁じられている約束を、水や風や光の妖精達が止めるのも聞かずに、こっそりと空に昇った折りを見計らって、そしてほんのちょっとだけ虹のかけらを盗んだのでありました。それは、幸せの虹のかけらと呼ばれるものでありました。しかし、一体誰がそれを咎めることができましょう。そうしてあぶくの妖精は、虹のかけらで小さなシャボン玉をつくると、そうっと少年の傍らに置いたのでありました。
 妖精達が息をひそめて見詰めている中、はたして少年は足元に転がっている小さな虹色の玉に気が付きました。つまみあげ、手の平に乗せたときに、風の妖精は砂粒を落とし、光の妖精は輝きを与えましたので、少年の掌の上でそれはそれは美しい虹色を放っておりました。実際小指の先にも満たないちっぽけなものでありましたが、少年はしばらくの間、寒さに震えていたのも忘れて、眺めていたのでありました。そうしているうちに少年は、その美しい虹色の玉にささやかな願いを込めると、想い続けていた少女に贈る事を決めたのでありした。勿論それが少年にとっては、精一杯の事であったのです。

 その日を境に浜辺から、少年の姿は見当たらなくなりました。
そして、あのあぶくの妖精も。

 秋も深まった誰も居ない海辺では、妖精達が楽しげに遊んでおりました。そこにはあぶくの妖精の姿は見当たりませんでした。あぶくの妖精は虹のかけらを盗んだ事が見付かってしまい、その為に、記憶を奪われ妖精の世界を追われて、人間の娘にされてしまったからでありました。けれども、いたわり想う気持ちだけは消し去る事ができなかったのでしょう。あぶくの妖精は人間の娘にされてもなお、町の片隅で人の幸福を探す事をしていたのでありました。暮らしぶりは貧しさそのものでありました。他人の幸福作りの為に、自分のことすら後回しにしてしまうのですから。それだけ余計でありましたので、辛さも余計でありました。だって元は妖精だったのですもの…。
 町に住む妖精達の中では、人間にされた妖精の噂で、もちきりとなりました。暫くは、あぶくの妖精の回りを囲んでは、覗き込んだり話しかけたりしてみる者もおりました。しかし、それもすぐ止めてしまいました。それは、人間にされた妖精にはすぐ目の前にいる仲間の妖精達を、見る事も話す事も共に語り合い笑い合うことすらできなかったからです。その姿を哀れんで他の妖精達が涙を浮かべても、人間の娘となった妖精には何も見えませんでした。ただいつも一人、幸福を思い探しあぐねては疲れ果て慎ましく、貧しく暮らしていたのでありました。

 ある日、娘の元に小さな包みが届きました。誰が届けてくれたのでしょう。そうっと開けてみると、そこには娘があぶくの妖精だった頃に、いつかの少年に与えた虹のシャボンの小さな玉がありました。少年が心を痛め、願いを込めた虹のかけらは、真珠の指輪となっていたのでした。少年の想いを寄せていたその少女こそが、人間にされてしまったあぶくの妖精になっていたのでありました。
(一応の脱)


散文(批評随筆小説等) 虹のかけら(あぶくの妖精の話) Copyright 板谷みきょう 2007-04-28 02:19:50
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