佐々宝砂作「よもつしこめになるために」を読んで。
カスラ
「古事記」という神の物語を思索したこの作者は、経験が自身を自ら語り出す瞬間、その独自の言葉遣いにこそ耳をすます。
※「それは、ある意味では、われわれには聞き馴れない語りであるかもしれない。発生状態にある言葉は、そこに語られることどもの不思議を、科学的言語という賢しらによって納得してしまうのでなければ、それこそがわれわれの人生の本来であろう。神の物語を過去のものとするのは、現在という経験を生きるのをやめた者だけだ。永遠に発生状態にある物語は、現在われわれによって生きられている事実であって、この事実を越えた何か別の観念的対象であるのではないからだ。たとえばわれわれは、物語の発生を見出だそうとして、民族の歴史を遡る。しかし、その民族であるとは、その物語を共有するということ以外であり得ないのであれば、物語を民族による創作とは言い得ないと知るだろう。いやむしろ逆に、民族こそがその物語によって創られているのである。われわれが物語を創ったのではなく、物語がわれわれを創ったのである。さて、「われわれ」とは今や誰の謂だろうか。われわれとは、神々の永遠の歴史における一場面なのではあるまいか。一場面にすぎない、とは言わない。「すぎない」と言える地点は、もはや存在しないからである。だからこそ、私には、ごく当たり前にそんなふうに感じられるのだ。」(新考えるヒント:池田晶子)
このような感覚は、宗教以前のものである。制度としての宗教や、知る営みとしての哲学や科学が、この不可知な何ものかに対するそれぞれの態度の取り方であるのなら、このような感覚こそ、人類の一切がそこから発生する母胎であろう。それは謎である。しかしそれは懐かしい。しかし同時にそれは、畏ろしい。
表題、「黄泉醜女(ヨモツシコメ)」とは、死んで黄泉の国の住人となった〈イザナミ〉が放った女の死客の名である。詩中はこのような聞き慣れない、いくつかの神代の言葉で彩られている。古事記では、死者の国である黄泉へ入り、そこの食物を食べることを(黄泉戸喫・ヨモツヘグイ)といい、そうすることにより、再び人間界(豊葦原・トヨアシハラ)には戻れないとされ、それらを隔てる境を(黄泉平坂・ヨモツヒラサカ)と呼ぶ。作中「壱」で描かれている、まるで獣脂のような油脂を水面に浮かべる湿原(豊葦原)を、ゆるゆると浮島(天の浮舟)に乗り、主体は黄泉へと向かう。途中、境界(黄泉平坂)を越えなければならないが、この「弐」では神代の時代よりうんと新しい、「橋の伝説」が挟まれている。いわゆる橋の安全を祈願しての人柱として眠る「橋姫」であるが、「櫛を置いてゆく」と描かれているところからみて、この姫も、神話の〈黄泉醜女〉として設定されていることがわかる。主体はその橋を渡り、二度と戻れなくとも自ら〈黄泉戸喫〉することを意志する。そして橋の向こう側は、主体にとっての「約束の場所」であり、待ち合わせる相手と、それへの約束の誓いがあったことが明かされている。
従者である黄泉醜女ばかりではなく、元型(グレートマザー)としての“伊邪那美命”(イザナミ)は、大地の太母性の象徴であり、「誘う」の語源であると考えられている通り、その体内へ、さらに内へ内へと取り込みゆく負の母性である。それは民族や文化に関係なく、普遍的潜在意識に横たわる「元型」のひとつであるとされ、暗きもの、始源への回帰、言わばタナトスへの欲求で、死への憧憬を誘い、ときに畏怖され、忌み嫌うべき「穢れ」としての、洞窟や黄泉の国の暗い死として象徴される。そういった女性原理ともいえるものを「黄泉醜女」と作者は比喩していて、女であることの哀しみを、女として生きてゆかざるを得ないそのさがを、浅ましく醜いものであるとだけ詠んでいるのではもちろんあるまい。
神話の中で伊邪那美は、黄泉の暗闇の中、見てはならないという約束を破り、自分の蛆わき朽ちたる忌まわしき身体を知ってしまった夫、イザナギに対して「汝の国に新たに生まれし者を千人殺そうぞ」と呪詛し、それに対してイザナギは「それでは私は千五百の新たなる産み家を建てよう」と宣言する。この場面から、古代の母系型社会は、男を中心とする父系型社会に移行するさまを観て取れると学者らは賢らにいうのであるが、最後の「四」で主体が、黄泉戸喫として喰らう黄泉の食物は、あなたの「言葉」であり「歌」であるという。この、あなたである男が、どうやら現世にて麗しく美しいであろうひとりの女を、鬼のような黄泉醜女にる変える原因であり、橋の向こう側の同じ場所で出会う約束を取り付けた者であろう。そして、同じく言葉に取り憑かれた者として、ある種類の言葉は命であり、言葉を食べて生きているとは、そんな者たちの偽らざる感嘆と歓喜ともいえる実感である。
その男を私も知っている。男の名は寺山修司と言う。男は「消されたものが存在する」で指示した、その素っ気ない50音で並べられたコトバで、自身の名前を消してみせ、この作者に自身の名前を消させた。
※「消されたものが存在する」のコトバに影響されたひとはすべて、イデオロギーだの趣味だの嗜好だのを越えて、同じ場所で出逢うのだと私は信じている。たとえ、最後の橋が焼け落ちたとしても。いつかきっと。」(作者:異形の詩歴書より)
女性は男にとって、何時も向こう岸の存在ではあっても、「女はおんなである、ただそれだけで、うつくしいのだ。」これは何を論じたことにもならぬ私の勝手な持論であるが、その言葉に出会い魅了され、信じているというその人にこそ届けられるべき言葉なのだ。
言葉に憑かれた者を逆説として「醜女」と比喩し、自らも黄泉の国の主となることを欲する。それはある種の言葉とは、それを必要とする人を呼び合い、自他の区別を越えて在るという事実の不思議を考えさせる。
ワタシが言葉を語っているのではなく、言葉がワタシを語っているのだと気がつく瞬間というのは、人間にとって、少なからず驚きである。
そもそも人間が言葉を所有するということは、考えるほどに、やはり何か凄いことである。【2001年宇宙の旅】の黒い直方体のようなモノリスを思い浮かべて欲しい。映画では、ビッグバンによって宇宙が発生して、惑星地球が生成し、ホモサピエンスが生まれ、立ち上がり、その時、暗黒の彼方から飛来したモノリスが、道具を手にさせたのだったが、本当はあのとき【言葉】を与えたのではなかろうか。自然発生的にではなく、唐突の絶対的な出来事として。そのことがはっきりと感得される時、私は【凄い】という一種間の抜けたような感慨を抱く。もう茫然としている以外どうしょうもない感覚。
作品が作者ではないと言明されつつも、向こう側に出逢うと、まさにその言葉によって、言葉を命と知るが故にそう生きざるを得なかった者たちの約束の場所は現れる。
そうして私も黄泉戸喫したものとなり今日もこの人の稀有な言葉を待っている。
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