コザカしくないひと
んなこたーない
まずは素朴な疑問から始めたい。
どういうことかというと、それは一般的な通念を疑うということである。
となれば、まずはその通念が本当に通念として成立しているのかを疑う必要があろう。
しかしここでは単純に初歩的な問いを投げかけてみたいのである。
たとえば「ぼくは悲しい」というフレーズを考えてみよう。
果たしてこのフレーズを正面切って使える人間がどの程度いるのだろうか、ということである。
異化作用やらピエール・ルヴェルディのイマージュ論などをまつまでもなく、
もし使うのならばいくらかズラしたうえで、というのが多くのひとの考えるところではないだろうか。
あたかも「悲しい」という言葉を使わずに悲しさを表現するのが詩であり文学であるかのように思われている節がある。
それならそれでぼくは一向にかまわないのだが、ちょっとコザカしすぎるのではないか。
ハート・クレインの書簡だかエッセイだかに自作解説している箇所がある。
それは傑作中の傑作として名高い「航海(Voyages)」の?にある
「島々のアダージョ(Adagios of islands)」というフレーズに関してのもので、次のごとくである。
私がAdagios of islandsというとき、密集した島々の間を行く船の動きと、
リズムなどを指していっているのである。
これはたとえば、coasting slowly through the islandsといった場合の
言葉の理論的使用よりも遥かに直接的、創造的陳述であるばかりか、
音楽の世界をも導入していると思われるのである。
この理屈はあまりに主観的かつ独善的であると思う。
どれだけのひとがAdagios of islandsから密集した島々の間を行く船の動きとリズムを読み取れるのか、大いに疑問である。
登場人物と喜怒哀楽を共にする、というのは読み方として幼稚に思えるが、
また同時に正統的な読み方であるようにぼくは思う。
方法や構造にのみ注意を向ける読み方は、結局人間のかわりにマネキンを見ているのと大差がない。
もしぼくが何かを読むとしたら、それは文字の向こう側にいる人間に興味があるからなのである。
自伝や回想録の類が好きなのもそのせいだと思う。
いまは人生論的な解釈や批評は流行らないみたいだが、マネキンを相手にするくらいなら、
いっそ書を捨てて町に出たほうがマシな気がする。世の中には多くの娯楽が存在するのだ。
ただでさえ短い人生である、なるべくたくさんの人間と触れ合うよう努力すべきだ。
特殊な情緒を喚起させるのが詩の仕事であるという考えがある。それには色んなやり方がある。
異様な比喩を使ってみたり、字引から珍しい単語を拾ってきたり、
シンタックスを崩してみたり、不自然な改行を使ってみたり、
まあいくらでも挙げることができるだろう。もちろん、あんまり極端すぎると逆に凡庸に陥る可能性もある。
たとえば視覚詩なんかの場合が特にそうだと思うのだけれども、
先鋭的なもの程、先例とネタがカブった時点で魅力は激減してしまうものだ。
「悲しい」「美しい」「素晴らしい」……といった形容詞は危険視されがちだが、
素直に使えばいいとぼくは思う。なにもステレオタイプを恐れることはないのである。
多かれ少なかれひとはみな同様なのだから。
中桐雅夫の「海」をはじめて読んだときの感動はいまだに忘れがたい。
何よりも「すばらしい色」という表現が本当に素晴らしい。
根府川と真鶴の間の海の
あのすばらしい色を見ると、いつも僕は
生きていたのを嬉しく思う、
僕の眼があの通りの色なら
すべての本は投げ棄ててもいい。
沖の方はパイプの煙のような紫で、
だんだん薄い緑が加わりながら岸へ寄せてくる、
岸辺にはわずかに白い泡波がたち、
秋の空の秋の色とすっかり溶け合って、
全体がひとつの海の色をつくっている、
猫のからだのようなやわらかさの下に、
稲妻の鋭さをかくしている海、
ああ、この色を僕の眼の色にできるなら
生きてゆく楽しさを人にわかつこともできるだろう。
一連目だけの引用だが、書き写しているとあの感動が蘇ってくる心持がした。