冷たい月
キメラ

何年たったのだろう。
そんなことはもうどうでもいい。玄関の鍵をあけ無言のままリビングへとすすむ。
「ただいま」…そこには誰もいない。かぜも吹き込まぬ蒸し暑い熱気には、
混沌としたカオスが渦巻いていた。
床に散らばったポルノ雑誌、喰いちらされた後のゴミが腐乱し、
退廃に打ち付けた日常の壁に刻む薄こげたような印象があふれていた。

コンビニに出掛けた男は、所謂、異常性癖者というもので、一般的世間でいうストレンジャーの類である。アパートから角を4つ曲ったところに立派な屋敷があり、その庭には大きなゴールデンレトリバーがつながれていた。男は何時間でもそれを眺めてはアパートにかえり、欲情のまま一心不乱にシゴいた。 
「優美で誇り高きケダモノめ…」

射精を終えると、からだをフローリングに放り投げ煙草に火をつける。
世界が遠すぎる狭い部屋にどうしようもなく蓄積されたカタルシス。
気付かずも月の夜に牡犬は鳴く。
退廃が闇を支配しはじめた。

あくる日、習慣からか男はコンビニに朝食を買いに出かけた。
いつもの角を3つ曲がったところで、小さな声がする 「あの…」
虚妄なのかリアルなのか、そんなことはどうでもいいだろう。
振り返るとそこには、制服をきちんと着た女学生がこちらを見てにっこり笑っていた。
「はい?」男は怪訝そうに答えると、少女はすこし髪を気にしながら控えめに瞳を覗き込んだ。
「わたしを飼育してください…」 乾いた熱風の炎天下、通りには人影もうつさない。
すぐさま男は言い放った「ざけんな…」 無視して歩きだそうとした瞬間、
信じられないことがおこった。少女はナイフで自分の喉を切ったのだ。
唐突に訪れた日々からの永い逃走劇。
原色の赤が無機質なアスファルトに異世界をはじき、紛れもなくそこには誰もいなかった。
七月の太陽に浸透し始めた冷たい月、それいがいは…

救急車が彼女をつれていく。サイレンとがさつな親切でけたたましい群衆のグレー。
男は不思議な感覚におそわれていた。まるで自分の体の一部が削ぎとられ持って行かれるようじゃないか。
そんな気持ちのまま立ち尽くし、サイレンのドップラー効果が現実と虚構を行ったり来たりしている。

少女はもういない。
男はもう一つの角を曲がることなく、そのままアパートへと引きかえした。
玄関の鍵をあけ無言のままリビングへとすすみ、フローリングに寝そべると、
あの少女が枕をあててくれる。


きっとすべては冷たい月が魅せたゆめさ
ついさっき出会ったばかりの少女がえいえんになる。





未詩・独白 冷たい月 Copyright キメラ 2007-04-15 12:10:26
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