射精についての覚書、あるいはボードレールについての覚書
んなこたーない
Loser、うながされるまま射精する、この夜の果てにダダダダダ。
これはついこの間ぼくが書いた詩の最終行なのだが、なにはともあれ話は射精についてである。何が好きといって、ぼくはセックスほど好きなものは他にない。セックスといっても挿入だけに限らないが、射精まで至らない性行為はなにによらず不満足である。先日も友人と連れだってオッパイパブに行ったのだが、時間の間じゅう隔靴掻痒たる苛立ちにさいなまれた。
たしか「オナニー」は聖書の登場人物に語源があるはずだが、精液の無駄遣いは悪徳であるという考えがある時期ある所では存在していたようである。ここで思い出すのは、これもまたあやふやな記憶だが、フロイトの「生殖を目的にしないあらゆる性行為は倒錯的である」という発言だ。生殖が目的でない性行為を人間特有である、と言いきっていいものかどうかはわからないが、少なくとも人間的行為に違いはあるまい。そうなると、倒錯的であることが人間の本質であるということになる。倒錯が本質、というのが文章として成り立つかどうか怪しいものだが、暴力のない日常が退屈なように悪徳のない人生は魅力に乏しい、それには疑いをいれない。
「美は常に奇妙である」
こう言ったのはボードレールである。
「規則通りに行かないもの、即ち、思いもよらないとか、不意打を喰らわすとか、びっくりさせるとかは美の本質的な一部分、美の特質である」
この美の定義は特に物珍しいものではなく、古くから美はそういうものであったようだ。これを体系化したひとりにポーがいる。周知の通り、ボードレールはポーの遺産相続人のひとりであり、「ボードレールと共に、フランス詩も遂に国境の外に出る」(ヴァレリー)、その恩恵をうけた詩人は数限りない。マラルメもブルトンも西脇順三郎もそうである。もちろん、そこには詩人それぞれの気質があるわけで、なにも書物から得た印象をなぞっているだけではないだろう。まち、次の指摘も重要である。すなわち、これもまたボードレールからの引用だが、「『美』は常に人を驚かせるからといって、人を驚かせるものが常に美しいと考えることは、少々馬鹿げている」
今さっき、あるエッセイを読んだ。それは古今東西著名な思想家、政治家、文学者などの女性に関する語録についてのもので、今日から見るといかにそれらが蔑視的であるかという趣旨のものであった。その中で特にナポレオンの次の発言がとても印象に残った。「女とは、子供を生産する機械以外のなにものでもない」なんだかどこかの国の大臣が口にしそうなフレーズだが、有難いことに、現代はナポレオンの時代ではない。人口爆発の世紀である。「生めや増やせや」はもう流行らない。
ところで、ぼくはヘンリー・ミラーが好きである。永井荷風も吉行淳之介も好きだ。かれらに共通しているのは、小説内に娼婦ばかり登場するというところだ。ぼくも娼婦は嫌いではないが、素人の方が断然好みである。困ったことに今の世の中、セミプロと呼びたくなるような女性の数が少なくないことで、道徳観念は変化するものだから、かれらの女性観もそのうち完全に通用しなくなるだろう。ともあれ、女遊びに金と時間が必要であることには、今も昔もない。これをいかに捻出するか、それが問題だ。
ボードレールは「ダンディ」について次のように述べている。
「金もあり、暇もあり、遊びすぎて感覚が鈍くなってはいるが、幸福を追い求めるほか何の仕事も持たない男。贅沢三昧に育てられ、若いうちから人に頭を下げさせることに慣れている男。つまりは、粋というこの職業しか身につけていない男」
「ダンディは、常に休みなく崇高であろうと望まねばならぬ。彼は鏡の前で生活し眠らなければならぬ」
この文章から、ぼくらはかれの理想の投影を見出すだろう。病弱と貧困と不運にとりつかれたかれの人生における本能的渇望を読み取るだろう。
たしかにボードレールは伝記を読むかぎりでは相当に付き合いにくい性格をしていたようだが、表面的事実はどうであれ、かれの生き方にひとつの誠実さを見るというのは、多くの批評家の一致するところのようである。ブルトンは「ボードレールはモラルにおいてシュルレアリストである」と述べている。
ぼくはウィルフレッド・オウエンを敬愛するものだが、かれが書いている。「All a poet can do today is warn. That is why true Poets must be truthful」そのうえで、エリオットのボードレール論から次の文章を引いてみよう。「今日から見ると、ボードレールの詩は手本として模倣したり泉のようにそこから詩想を汲み出したりするよりも、むしろ誠実という義務すなわち神聖な仕事を思い出させるものである。ボードレールは根っからの誠実さを踏みはずさなかった」
優れた近代詩人の多くは、誠実であればあるほど、truthfulであればあるほど、破滅的傾向があるよう思われる。ただし、先の引用を真似て言えば、優れた詩人が破滅的な傾向にあるからといって、破滅的な人間が優れた詩人であるとは限らない。なにより、こういった傾向はロマンティシズムの系譜で見るより、近代の宿命とその不幸について考える道筋に使った方がいいのではないかと思う。
「人間の栄光は救済をうける可能性だということは本当だが、その栄光は罰をうける可能性だということもこれまた本当である」(エリオット)
以前、出会い系を通じて知り合った女性がいた。待ち合わせに来たのは、女装をした17、8の少年であった。とても奇麗な顔立ちをしていて、遠目で見ると女性と見紛うほどである。オカマのなかでは、おそらくアタリの部類だろう。フェラチオくらいさせてみようかと思ったが、結局少し話をしただけで別れた。一線を越えるには勇気が必要である。
セックスが好きだといっても、同じパートナーでは飽きが来る。ぼくは不特定多数の女性が相手の方がいい。習慣は敵である。だから結局は新鮮さが重要であって、相手が誰であるかはあくまで些事に過ぎないとも言える。
セックスにおける精神面を看過している気もするが、ぼくはあまりその手のものを信用しない。思えば、ボードレールのサバティエ夫人に対する精神的な愛と、最終的に「今は君は女でしかない」と書き送ることになる、そのあまりに無残な失敗を知るときに、例えばダンテと比べてかれの描いた夢の貧弱さに驚かざるを得ない。そして、ぼくはそこにある程度、近代の頽廃が桎梏として作用していたのではないかと推測する。
なにはともあれ、一番の恐怖はインポテンツである。ぼくは昔から大のアメリカかぶれなのだが、文学におけるインポテンツあるいはアンチヒーローの登場率はアメリカ文学がひときわ高いように思う。これはぼくの数少ない読書体験から導きだしたにすぎないのだが。アメリカが世界の嫌われ者だといわれるとき、その制圧的態度、つまりは男根的な面が問題になるのである。だからこそ逆説的にインポ文学が生まれる、というのもまだ推測の域を出ていない。
もうひとつある。ぼくがもっとも好きな詩人はハート・クレインである。また、テネシー・ウィリアムズの大ファンでもある。二人に共通するのはズバリ同性愛である。(つづく)