山田せばすちゃんショウ番外編「やんのかこら、現代詩手帖?」
山田せばすちゃん

何年かぶりに現代詩手帖を買ってみたのは、85年からこっちの詩を振り返ってみようという特集に惹かれたからなのだけれど、それはちょうど、俺が詩を書くのを休んでいた25歳から35歳までの10年間の空白期間にほぼ対応するのだし、前回も書いた通り「詩をめぐる議論」に関するアーカイブがインターネット上には俺の知る限り殆どないので、ならば大枚1200円も恐れる事は何もない、品のないピンクの表紙にちょっとだけ周囲の人々の目を気にしながらも、俺は現代詩手帖8月号を掴んでとっととレジまで歩いて、今朝妻の財布からそっとちょろまかしてきた10000円札の、お釣りを受け取るのさえもどかしく俺は書店を出てすぐに駐車場にとめた車に戻ってページを開いたのだ。
北川透/稲川方人/井坂洋子/城戸朱理の対談はそれなりにまとまっていて面白く(実はまだ全部読めていませんが)彼らが選んだアンソロジーにもなるほどなるほどと(それにしてもこの作者の顔ぶれ・・・知ってる名前の少ないことったらありゃしない、ああ、俺って本当に無知なのね・・・)
冷房をちょいとばかり効かせすぎて、窓の外側が曇ってしまった車内で、煙草を喫い、本日朝から3本目の缶コーヒーを飲みながら、俺は空白の10年を少しでも埋めるべく、仕事の予定時間がとうに来てるのをちょっと気にしながらも、「職業人であるよりはいま少しだけでいいから、神様、俺を詩人でいさせてね」とページを繰っていたのだった。
そんでもって「現代詩のキーワード」とかいう名の小コラム。
「市場原理とサブカルチャー」だの、「女性詩」だの、「ポストモダン」だの、俺にも少しはわかる80年代キーワードの(そのそれぞれにも異論はあるんだ、あるんだけれど、ここで全部やるのはやっぱり前置きとしてはいくらなんでも長すぎるので、割愛する、などといいつつ前置きはまだ続くのだけれども)むこうっかわにやってきましたお待ちかねの90年代、「定型詩論争」・・・おおそんなことがあったのか、「湾岸戦争詩論争」・・・これはこの前のイラク戦争のときにちょびっと話題になってたっけか、「ディスコミュニケーション論」、「詩の朗読現象」と続いてついにたどり着きました、「インターネットの影響」です。

もうのっけからこの筆者(横木徳久)、インターネットに対する悪意に満ち満ちております(苦笑)
「新種のメディアや表現形態の登場によって時代の流れが変わり始めるとき、つねに大量のゴミも一緒にその方向に向かい、移動することになる。
はいもうこの通り、冒頭よりネット詩、すでに「ゴミ」扱いです(苦笑)
鈴木志郎康や清水哲男がホームページを開設した事例を並べておいてすぐに「詩人といってもセミプロ級が数えるほどで、あとは圧倒的にアマチュアが占めている」と来た日にゃあ、そんなら鈴木や清水は「セミプロ」かい(笑)いったい、あんたの言う「プロ」の詩人って言うのは誰のことなんだい、と名実ともにアマチュアである俺は突っ込んでみたくもなるのだが、横木氏、よっぽど「アマチュア」の跳梁跋扈が気に入らないらしく「個人的な遊びとして完結しているならまだしも」はい、この「まだしも」怒りに満ちております(笑)「インターネット詩に着手している事の自負から、すぐにもペーパーレスの時代が到来して、自分たちの作品が主流になるような錯覚とデマを撒き散らしていた。」わははは、「錯覚とデマ」だってよ、誰だよ、そんなもん「撒き散らし」たやつは(笑)
インターネットが従来の紙メディアに取って代わるなんてことはもちろんありえるわけがなく、本気でそんなことを考えていよくるやつがもし今この文章を読んでいるのだったら、すぐに浴室に行って冷水を洗面器に3杯かぶって頭をよく冷やすように(笑)
ネットの詩はネットの詩として発展し成熟していくだろうけれど、それはあくまでもネットの世界という閉じた中で発展・成熟していくだけの事で、それと紙メディアの隆盛、もしくは荒廃とは、はっきりいってあんまり関係は無いことだと俺は思ってるし、もし、「ペーパーレスの時代が到来して自分たちの作品が主流になる」日が来るとしたら、それは紙メディアが勝手に自壊、荒廃して、結果的にインターネットの中でしか「詩」を探せなくなってしまった時でしかないだろうし、おそらくそういうことはありえない。インターネットというメディアと紙メディアとが上手に交流していけばいいなあ、なんてことを言うと、まるでいとうさんみたいだけれど、俺は相互の交流はありえるだろうし、現にあるんだし、それで「詩」そのものが面白くなっていく事には何の異論もないんだけれど、「集合としてのインターネット詩」みたいな概念は、多分、紙メディアとは無縁のところにあって、勝手に生成発展していくんじゃないか、などと、俺はそんなふうなことをうすぼんやりとだけれど思っていたりする。
むしろ、こういうふうに紙メディアの側がインターネットというメディアを口を極めてののしりたくなるのは、実はそれなりに紙メディア側に「危機感」みたいなのがあるからじゃないの?なんていうのは下衆のかんぐりでしょうか(笑)「すぐにもペーパーレスの時代が到来して、自分たちの作品が主流になるような錯覚とデマ」を流しているのは実はあんたたちのほうじゃないの?なんてね。
だいたい、この人、ネット詩読んでるのかね?読む値打ちもないと頭ッから決めてかかってるみたいだけれどいったいどこのどの時点でどんなもん読んでネット詩は「ゴミ」だと決めたのか、それを聞いてみたい気がするのって俺だけ?確かにネット詩は「玉石混交」の状態というか、あるいはもしかしたら「砂浜に砂金一粒」の状態であるかもしれないし、それはいとうさんがかつて「詩学」の2002年の2月号で書いた論考「ネット詩人は電気詩壇の夢を見るか」にあるように、ネットという場の特質である「淘汰システム構築の困難さ」(いとうさん)によるものであって、だったらてめえんところの詩手帖に送られてきてるはずの「今月の作品」911編全部見せてみろ、はしにもぼうにもかかんないような作品だって絶対その中にはあるはずだし、それ読んで俺が「紙メディア?ゴミだよ」なんていってもいいのか?などと聞いてみたくなっちゃうじゃないか、まったく。
誰一人として(もちろん俺だって)ネット上に散在するすべての詩を読んではいないわけだけれども、それでも確かにネット詩のなかにも「玉」もしくは「砂金」は確固としてあるわけで、そういうものを探そうとする努力というものをだね、一応ポーズだけでもいいからして見せてほしい、などと俺はこの横木氏にはいいたい、小一時間問い詰めたい(笑)
そんな偏見のせいなのかどうなのか、横木氏はネットを作品が生成する場であるとは金輪際思っていないらしく、次の段落から延々と書かれている彼のネットに対する「苦情」はただひたすらに「検索」に関する問題であり、なんのことはない、「お前らゴミどもがむやみやたらにゴミサイトを作ってるもんだから、俺は検索が非常にやりにくいんだよ、忙しいんだよ、こっちは」だし、「だいたい俺の欲しい情報がネット上には転がってないんだよ、不便だよな、まったく」だったりするわけで、実は横木氏にとってはネットとはひたすらに情報を仕入れるところであって、それ以外のもんだとはちっとも思ってなかったりするわけだ、これが(笑)
挙句の果てにブロードバンド化の恩恵を「つまらないインターネット詩やホームページをのんびりと閲覧するヒマな人種」(って、つまり俺らのことだよな、ヒマな人種だったらしいよ、俺たちって、これ読んでるあなたたちも含めて、の話だけれど)「だけでなく、手早く必要な情報を入手したい多忙なユーザー」(って言うのが横木氏なわけね、どうでもいいけど、俺らは「人種」であんたらは「ユーザー」かよ、そういうのは「人種差別」って言わないのか?言わないだろうけれど)「にも対応できるようになった」って、どんなパソコン使ってるんだか知らんがいまどきテキストサイト表示するのにブロードバンドの恩恵がそんなにあるとは思えんぞ、もしかしたら横木氏ってつい最近までアナログ回線使ってたわけじゃあんめえな、まあそれだったら膨大な詩のサイトめぐりしてたら電話代いくらあっても足りないだろうからあんまり詩のサイト見てないのも理解できない話じゃないぞ、そうなれば上記の「つまらないインターネット詩やホームページをのんびりと閲覧するヒマな人種」という言葉に込められた悪意にもほんの少し根拠はあったわけだ、なんだ、貧乏人の僻みだったのか(笑)ちなみに俺は光入れてるもんね、やーい。でもテキスト表示する分にはちっとも100Mの恩恵感じてないんですけど・・・
しょうがないから横木氏の代わりに「作品が生成される場」としてのネットの特質についても、ほんの少し書いておいちゃおうかしら。つってもほぼいとうさんが前出の論考で書いちゃってることの焼き直しになってしまうのかもしれないけれど。
ネット上で生成される詩がまず一番に恩恵にあずかれることは,その作品に対するレスポンスの速さで、これはこのサイトを利用している皆さんにはよくご理解いただけるところじゃないかと俺は思う。例えばさっきの詩手帖の「今月の作品」という投稿欄の911編は6月20日に締め切った分なのだそうで、要は結果が出るまで約二月、その間何の音沙汰もなし(w現代詩フォーラムだったら早いときには投稿して10分後にはなんか評価されてるときもあるというのに(w
しかしながらこのスピードゆえにネット上の詩は凄く寿命が短い、あっという間に掲示板の外に押し流されて、次に見たいときにはもうな探せなくなってたりすることもあるわけで、そういう意味では詩人ギルドhttp://www17.big.or.jp/~kinro/index.shtmlやPJ http://www.poetry.ne.jp/の詩のアーカイブとしての役割はすごく大きかったりする
そいでもってこのレスポンスの速さは、時に詩を目的じゃなくて手段にしちゃったりする事もあるので注意が必要だ、と俺は思う。確かに自作に何らかの評価、コメントを貰うのは作者としてうれしい事であるには違いないけれど、だからといってそのコメントの一つ一つにまで丁寧に再レス付けちゃうのは詩をコミュニケーションのツールにしちゃってるようで俺はあんまり好きじゃない。好きじゃないので、よっぽどこたえるコメントや評価にしか返事はしないし、それもできれば公開の場ではなく、個々人間のメールででもやるべき事ではないか、などと考えちゃったりもしてるわけだ。(というわけで俺はここ現代詩フォーラムにおいても、自作に頂いたコメントに関してはなるべくお返事をしないように自らを律しております、いやいや、画面のこちら側ではありがたいなあ、うれしいなあ、などとちゃんと両手を合わせて、時には滂沱の涙でディスプレイをにじませながら、コメントを拝読いたしております、などと、誰もみていないのをいい事にまたいい加減な事を書いたりもする)
さてさて、インターネットを作品生成の場ではなく、ただの資料集であるとしか認識してない横木氏の(だったら冒頭で書いた「新種のメディアや表現形態の登場によって時代の流れが変わり始めるとき」というフレーズはなんだったんでしょう?ちっとも表現形態として認めてはいないじゃないですか,まったく、その気もないくせに懐の広さというか、物分りのよさを詐称しようとするから、こういう首尾一貫してない文章を平気で書いちゃうんだろうなあ、バッカみてえ)結論はやっぱり「インターネット詩はいずれ淘汰されるであろうが、有益な詩情報を提供するインターネットそのものは今後も充分期待できる。」とか言うスカタンであった(苦笑)「淘汰されるであろうが」って淘汰したいのはあんたでしょうが(笑)それも自分の見える範囲からネット詩を駆逐しておいて、「俺には見えないからネット詩は淘汰されたのだ」とか、勝手にいってればいいよ、砂の中に頭突っ込むダチョウ並みの知性でね。
心配しなくても、ネット詩はネット詩で勝手にやってくから、あんたはせいぜい文句言いながら資料収集にのみネットを活用して頂戴。


散文(批評随筆小説等) 山田せばすちゃんショウ番外編「やんのかこら、現代詩手帖?」 Copyright 山田せばすちゃん 2003-08-13 03:04:34
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