「読んでないものは読んでいない」ことはないのである。
ななひと

「「よい詩人」とは何でしょう。」を書いたら、石田圭太さんがかなり早い段階で長文のレスをくださった。「優れた詩ってなんですか。(中略)個人的には、どの作品もそれはそれ!これはこれ!でフィールドを旅しながら全部楽しめたら俺楽しくて幸せ。程度にしか考えていません(笑)」とおっしゃっていますが、こういう読み方は「横断的な読み」だと私は思っています。「現代詩フォーラム」に限りませんが、読者は全部の詩・短歌・俳句・批評を読んでいるわけではない。人間そんなにひまじゃない。結局大量に出てくるものをピックアップして読んでいくしかないわけです。そこで「よい」と思ったものは「よい」、読んでないものは読んでいない、という風な読み方をすることになります。それはそれでいいし、普通はそういう読み方をするわけです。
しかし、少しややこしいことを言いますが、人は、「読んでいないものは読んでいない、ことはない」のです。ある人は確かに直接その作品を読んでいないかもしれません。しかし、別の人がそれを読んで、ある種の影響を受けたとする。そのインスパイアを意識的にも無意識的にも背負って表現活動をする。そうして生まれた作品を、人が読んで、「あ、これいいな」と思う。そのとき、テクストが背景に引き連れてきたものを、人は知らずに「読んでしまう」のです。
こうしたことは、小さなコミュニティほど明らかですが、人は全く孤立することはできません。何らかの情報を受け取った場合、人はそこに書いてあるテクスト以上のものを既に「受け取ってしまう」のです。変態ロリコンの私の場合、例をあげるならば、旅をするたびに、その土地の人、特に女子高生の制服の着こなし、スカートのはき方、靴下の履き方、何をアイテムとして身につけているか、をチェックします。何をいきなり、と思うかもしれませんが、これは重要なことです。彼女たちは何らかの大きな情報に動かされている訳ではなく(もちろん雑誌などの情報によって影響される部分は大きいのだけれども)、友達がどのような制服の着方をしているか、何を持っていると共同体の一員として「かっこいい」「かわいい」とみなされるか、を敏感に察知し、それを摸倣、あるいはすこしさらに「洗練」させて、自分の身なりを決めていきます。全然違う土地からそうした少女達をチェックすると、全国共通の部分もあれば、その地方独特のものもある。北海道の僻地に行くと未だにルーズソックスの女子高生がいる一方、札幌に来ると女子高生は、極端にルーズソックスを嫌う。札幌では、「紺のハイソックス以外は時代遅れだ」と思いこんでいる。大阪にルーズソックスの女子高生は見かけないが、和歌山の田舎にいると未だにルーズソックスをはいている。スカートの長さは、一概には言えませんが、概して田舎の方が短い。テクストと全く無関係と思われるかもしれませんが、こうした「身なり」は、非常に重要です。衣装とは「自分を相手にどう見せるか」の最も際だった問題だからです。都会から距離のある女子高生は雑誌などのファッションを見て、「都会の女子高生はこういう格好をしているんだ」という幻想を抱く。実際に東京に来てみると、東京の女子高生のファッションは(場所によりますが)全然保守的なことが多いにもかかわらず。
ちょっと論理が錯雑していますが、いわゆる「引きこもり」の人でさえ、こうした情報から隔絶されているわけでは決してない。インターネットに接続できる人はもちろん、そうでない人も、家族などとの会話、極言すれば、買い物で何を買うか、店に並んでいるものは何か、というものから、時代の思潮を「読んでしまっている」のです。人間は決して孤立することはできないのです。
遠回りしてきましたが、石田さんのように、いいな、と思う詩をちょんちょんと自分の糧として読んでいく、という読み方(「横断的な読み方」)は、普通ですが、それは決して、より大きなテクストの状況を読んでいない、ということにはならないのです。その飛び飛びの読みからからさえ、人はいろいろなことを「既に読んでしまっている」のです。もちろんそれは「正しい」読みとは限らない。札幌の女子高生のように、「私たちは最新のファッションをしている」と思いこんでいて、東京の女子高生より先鋭な形で時代を「身につける」こともあれば、情報が遅れて(?)いて、未だにルーズソックスをつけることを選択する場合もある。
私は現代詩フォーラムにずいぶんご無沙汰していて、一年くらいのぞいていなかったので、その意味でかなり田舎の女子高生化しているわけです。そしてフォーラムに再度来てみて、ずいぶん状況が変わっていることに驚く。しかし二三の批評、詩を読んでしまうと、何らかの意味で状況に参入してしまっているわけです。自分ではわからなくとも。
人は、「〜は最近読んでないから」「〜の知識がないから」という言い訳をすることは決してできないのです。読んでなくても読んでいる。読んでいなくても何らかの情報が自分にどういう経路かで流れ込んでいる、そういう自覚をすることは、ある意味大切だと思います。


散文(批評随筆小説等) 「読んでないものは読んでいない」ことはないのである。 Copyright ななひと 2007-03-20 16:07:19
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