「よい詩人」とは何でしょう。
ななひと
「あの人は「よい詩人」だ」と言われると普通詩を書く人は喜びます。しかしここにはいろいろとむつかしい問題が孕まれています。まず誰にそれを言われたかという問題。様々な人に認められている人にこの言葉を言われるのと、全く認められていない人(誰が認めるかという問題は後で書きます)に言われるのでは、喜び方が違う。当然普通の人は、いわゆる「偉い」「有名な」詩人にこの言葉を言われると喜ぶわけです。そして人数の問題。当然たくさんの人に、「よい詩人」と言われれば言われるほど、それだけ「認められている」という気持ちになるわけです。
しかし、逆に言えば、そういった「人」からの評価を全く受けない、全く言及されない「詩」「詩人」はダメなのか。普通の人は、自分の詩が、誰にも読まれない、誰にも言及されないならば、おそらく悲しむ、あるいは失望するわけですが、ここで問題なのは、先ほどの「よい詩人」と言った人も、「よい詩人」評価にさらされていることです。「有名な」詩人はなぜ有名になったのか。それは当然多くの人に「よい詩人」と言われたから、あるいは「有名な」詩人に「よい」と言われたからでしょう。ん、するとここでループが生まれます。「よい詩人」を決めた人は「よい詩人」に決められ、「よい詩人」を決められた人が「よい詩人」を決めて、「よい詩人」と決められた人がまた「よい詩人」を…。
ここで問題なのは、決める人も、決められる人も、何らかの評価にさらされているということ、逆に言えば、そうした評価を逃れて「この人は「よい詩」を書く」ということができる絶対的な神のような人は存在しない、ということです。
さて、今はいわゆる「有名な」人からの評価について主に述べてきたわけですが、今度は人数の問題に移ります。多くの人に「よい詩人」と言われると、当然人はよい気持ちになるわけですが、じゃあ人数が多ければ「よい詩」と決まるのは当たり前なのか。人数、というと、何か力を持っているような気がしますが、そこにはいろいろな考えを持った人がいるわけです。しかし皆現代という時代を共有していて、その基準から琴線に触れる詩を「よい詩」と言ったら、みんなそう言っていた、というのが本当でしょう。過去の詩人がどう評価されて来たか、を見てみるとよりはっきりしますが、今の人は詩の専門家でなければ「野口米次郎」をいい!という人、あるいはそれ以前に知っている人は少ないわけです。「萩原朔太郎」ならみんな知っている。しかし、当時は「野口米次郎」は大変な有名人なわけです。詩でノーベル賞をとった「タゴール」というインドの詩人(こちらも今は知られていないとおもいますが)と比較して、「野口米次郎」もノーベル賞級だ、と当時の人は口々に賞賛するわけです。しかし今ではほとんど忘れられている。そうした場合に「いや、野口米次郎の詩は本質的に結局は「よい詩」ではなくて、歴史によってそれが分かったから忘れられたのだ」というのは非常に危険で「わるい」思想です。そう言っている本人が、将来どう言われるかわからないわけですから。こう見てくると「多く」の人数に「よい」と認められるということが、本当に「よい詩人」を決めるのかどうか、あやしくなってきます。
さて、ここで一つ反論があるでしょう。「よい詩というのは現代の人がどう読むか、ではなくて、その詩自体がよいのだ」と言う人が当然いると思います。
しかし、これは、一番危険な意見です。「詩自体」が「よい」、その「詩」の中に「評価されるべき当然の要素」が内包されている、というのは、一見正当に見えますが、よーく考えると、「詩」というのは「読まれないと存在しない」という事実を忘れ、一歩間違うと「詩」をあたかも絶対的な神のようにあがめる思想でしょう。だいたい「その詩自体がよいのだ」と言っているのは「あなた」じゃないですか。それを忘れ、あたかも「詩」に評価が内在化されているかのような信仰を表明することによって他の人の意見を全く聞かない、「詩自体がよいんだから、他の人がなんと言おうと関係ない」「詩自体を読んでください、そうすればわかります」、こういう事を言うのは、それはそう言う人自身が、自分も評価されている、ということを忘れている、あるいは隠している証拠です。
さて、ここまで書いてきたわけですが、実はこうしたいい方は非常に大ざっぱで、まず、「よい詩人」というのが、「よい」+「詩」+「人」というつながりでできているということ、そして「よい」は「良い」なのか「善い」なのか、「よい」の反対は「悪い」なのか「よくない」なのか、「よくない」詩を書く人は犯罪者なのか、というような細かい問題を忘れています。
しかしそれについてはまた後日書いていこうと思います。
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