空の下、浮遊するドアに手をかけ
紀茉莉
私たちは無数の部屋みたいな透明な空間を、いくつもいくつもハシゴしているのかもしれない。
ある時期、ある期間、ドアを開けるように入り、そこで過ごす。そして、その部屋で過ごす時期が何らかの理由(夜になるとか、朝がきたとか、熱すぎるとか、寒すぎるとか、暗いとか、明るいとか理由はいくらでもある)で目覚まし時計みたいに終わりを告げると、幾度となく通ったその空間のドアを開けて、また別の空間、別の部屋へと移ろいゆくのだ。
空には、そんな無数の抜け殻みたいな空間が、ぷかり、ふらり、ふわり、いくつもいくつも漂っているのだ。
それで、あまりに移ろい行く心を持った時期とか、何も見えないくらいに感覚が閉じている時なんかに、その、空に浮いてる抜け殻の空間に、入ってしまうことがあるのかもしれない。
どの部屋、どの空間に入るのかは、偶然で、必然で、ひょっとしたら運命で、あるいは神のみぞ知る、かもしれない。それは過去に幾日かいた空間かもしれないし、全く別の誰かが残していった知らない空間かもしれない。
目の前にあらわれたドアを開け、部屋に入り、身を置く。
「あ、ここは、以前……」
あるいは、
「ここはどこだろう、でも、なんだか懐かしい感じがする」
あるいは
「なんだろう、ここは。押しつぶされそうに気分が悪い」
なんて、部屋に入れば五感が働く。
それまで、どんなに疲弊していても。どんなに感覚を閉じてあらゆる物事に適応していたとしても。別の部屋に移り、空気が変わり、じっとしていれば、何かは必ず感じるものだ。
人間も生き物なのだから。
そんなふうにして、命をつないでいるとしたら、
空間はゆりかごのようで、ノアの箱舟のようで、墓場のようだ。
そして、それが当たり前にあるのが日常だ。
私は、当たり前のように家に住み、部屋に居る。
用事があればドアを開け、玄関に鍵をして、出掛け、用がすめばまた戻ってきて鍵を開け、部屋に入る。そうして暮らしている。
それがゆりかごであるともノアの箱舟であるとも墓場であるとも、思ってもいないけれど。
いつも、どこにでも、入り口があり、出口がある。
それはドアであり、誕生であり、死であり、出会いであり、別れである。
犬が尻尾を追いかけて回るように、それらは連鎖し、つながっている。
個別には、切り離されていても、つながっている。
不思議だ。
連鎖する空間のあいだとあいだに居るような今の私は、そんなことを思う。
もう一度戻りたいドアのある部屋も、もう二度と戻りたくないドアのある部屋も、いまこうして私が居るこの部屋も、同じ空の下に浮遊しているのだ、たぶん。
ふと、した拍子に、過去を感じたり、同じようなことを繰り返してしまったり、匂いを思い出したりするのは、そんな別のドアノブに、手をかけたときなのかもしれない。
私は移ろう。時とともに。
それでも、こうして日常がつながっているのは、たぶん、この体に、血が通っている、せい。
この”血”については、次回にでも書こうと思う。
空間と血と言葉はいつも同じような距離にあるような気がしている。
私から切り離された空間の言葉も、すぐ横にあったり、時々やってきたり、そういうことをしているように感じる。
いくつも切り離したその、空間への思いが、私を言葉に向かわせるのかもしれない。