作者:一番目の批評者
紀茉莉

批評というフィルターは、作品を見る目の数だけあって、
よい、と称えられて、甘さと接し、
わるい、と評されて、その作品を描いた意味を再確認させられる。

文字にわざわざインストールする“なにか”を
いちばん知っているのは作者で、
だからこそ効果的に意図するものをきりとることができるのだといえる。

作者として、いつも批評の目をもっているのか、といえば、
もしかしたらそうではないことも当然かんがえられるのだが、
(それは、つくりこまない、というスタンスなどで)
通常、「作品」として“詩をつくる”際には、かならず批評の目は第一フィルターとして、意識的、無意識的にあるし、また、なくてはいけないものだろうとも考える。

それは、どのようにみせたいか、よませるのか、という視線であり、
また、どのようにうけとられるか、という予測でもあり、
最終的にどの地点におとすのかを決めるきりとり方法であったりもする。

このみえない作業としての、作者の批評眼は、作品の主張と並行して
作品の主張が表側の柱なら、
裏側の柱として(それは、なぜこの作品を書いたのか、という理由なのかもしれない)
作品の筋となる。

読者という批評が二番目の、他者の目のものならば、
作者の一番目の批評は、自者の目からの、推敲、ということがいえるのかもしれない。

詩人、というものの根底にこの“推敲せざるをえない事象”が潜んでいることに、詩を読んでいるとすくなからず触れてしまうことがある。それは批評する目が、なぜ詩をかくのか、という場所にわたしをみちびいていく、ということでもある。

いつもこんなことを思って詩をかいているわけでは全然ありませんが(笑)





たくさん書いて、たくさん消しました。
すこしずつ戻して行きたいと思います。
場をみだして大変もうしわけありません。
いちばん自分をわすれたかったのは自分だったのかもしれない(2007.3.12)


2007.1.6■批評祭参加作品■でした。



散文(批評随筆小説等) 作者:一番目の批評者 Copyright 紀茉莉 2007-03-12 04:15:58
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