「路上」から始まるABC
んなこたーない
A
ジャック・ケルアック「路上」を読む。
これは主人公サル・パラダイスが狂人ディーン・モリアーティに翻弄されつつ
各地を旅してまわるという、いわばDiscover Americaの物語である。
そういえば、ヴァン・ダイク・パークスに「Discover America」というアルバムがあるが、
「路上」も「Discover America」も共にアメリカ批判が製作動機の一端を担ったと考えて間違いないと思われる。
批判と発見は不可分であり、批判のない発見も発見のない批判も、ぼくは必要としない。そうぼくは宣言する。
「路上」と印象が似た本に、金子光晴の自伝的エッセイがある。
(「マレー蘭印紀行」「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」、あるいは詩集「鱶沈む」なども入れていい)
サル・パラダイスにしろ金子光晴にしろ、根はかなりのロマンティストではないかと思う。
二人に共通して興味深いのは、おのれの身に降りかかってくる狂気や混乱にたいして
殉教者のごとく受動的でありながらも、それをリアリストの目でもって観察出来るという、その二面性である。
鮎川信夫が金子光晴について、
「生得のリアリストというよりは、難破して現実の岩にぶつかったロマンティストといった印象」を受けると述べたのは、
まさに正鵠を得たものだと思われる。
ひとりは狂人と出会うことによって、ひとりは時代の狂気に飲み込まれることによって、
共に難破せざるを得なかったのである。
ただ、自己の内部への視線の鋭さでは金子の方にかなりの分があると思う。
もしかしたらその辺りに、最終的に破滅にまで堕ち込んでしまったジャック・ケルアックの不幸があったのかもしれない。
そして、特に意味のない引用文。
「反逆者とは、その人間にとって出口がひとつしかないように定められてしまっている人間なのである」
(カール・オグルズビー)
B
ぼくはビートニクの役目はすでに終わったものと考える。
これは今のところなんとなくそう思う、というだけのことである。
もちろん、ギンズバーグがアカデミーに吸収されたとか、ビートニクもいまやひとつの商標マークであるとか、
そういうことだけで判断しようというつもりもない。
自発的貧窮、国家・戦争・商業文明などの有用性に対する拒絶、人間の意思伝達、すなわちコミュニケーションへの信仰、
これらはみな強力な純粋性であり、ときには破滅的危機を切り抜けさせてくれるような力を持っているかもしれない。
あるいはノーマン・メイラーのいうように、自己破滅の権利も奪うことの出来ない人間の権利のひとつではあろう。
しかし虚脱のニヒリズムからは永続的な人間関係が芽生えることがないというのもまた事実なのである。
そして、特に意味のない引用文。
「精神病者は理由なき反逆者であり、スローガンなき扇動者であり、綱領なき革命家である」(ロバート・リンドナー)
C
芸術において革命とは一見倒錯的かつ痴呆的な外観を呈することがしばしばであった。
当然、倒錯的かつ痴呆的であるということと、倒錯した痴呆者とは別物である。
革命とは天国を建設することではなく、地獄を破壊することである。
建設のない破壊も破壊のない建設も、ぼくは必要としない。そうぼくは宣言する。
そして、特に意味のない引用文。
「おお 時を鳴らせ 一兆回も真夜中の鐘を鳴らせ 僕はふたたびそれを聴こう」
(アレン・ギンズバーグ)