小気味いいと思えたらよかった
ふるる

少し前、3年ほど教会でゴスペルを習っていました。
ゴスペルは、奴隷制に苦しめられた人々が作り上げた、悲惨な状況の中での狂おしいまでの自由への渇望や、神への賛美を声と身体で表現する、ノリノリの賛美歌です。
そのゴスペルに魅了された女性がいて、その人が是非ここでやらせて欲しい、と教会の牧師さんにお願いして、実現した教室でした。
私はお友達に誘われて軽い気持ちで習い始め、歌うのが好きだし皆で歌うのは楽しいしで続けていこうと思っていました。
が。
そのゴスペルチームを率いている(ディレクターという)クリスチャンの女性の発言に、自分には合わないものを感じてやめました。

ひとつお断りしておきますが、私は宗教や信仰や信者は人を救うことができるのだということを体験として知っています。
神様に絶大な信頼を寄せ、疑っていない人が
「神はいつでもあなたの傍にいて、あなたを見守っています」と言うからこそ、その言葉にには重みと力があります。
それは、ほんとうに自分ではどうしようもない困難があって、立っているのもやっとの時に言われなければ分からないと思うのですが、いついかなる時も誰か優しい人が見守っていてくれるという確信的な言葉は、とても心強かったです。神様は見守るだけで何もしないけど、何かするのは自分だし。

ところが、そんな風に神様を絶対的に信じている人、私を救ってくれた人、お祈りという素晴らしいものを教えてくれた人が言うのです。
「全世界の人がキリスト教を信じたら戦争は絶対になくなるはずだ」
それを聞いて私はのけぞってしまったのです。

それが神様を信じるということかもしれなくて、信じている人にしかできないことが沢山あるのですが、私はどうしても納得できないなと。
世の中には宗教がらみの戦争は沢山あって、それはキリスト教の人同士でもあることで。
しかしその人に「あなたの意見は少しのん気過ぎじゃないか」と言っても、
「それが信じるということ」「戦争をしているクリスチャンは、間違ったクリスチャン」と言われるので、議論になりゃしません。
使っている言葉が全て「神に感謝」「神のお陰」「神の思し召し」なので、私とは住む世界が違うんだなと思うしかありませんでした。なんとなく、相互理解、相互すり合わせのための対話を拒んでいるような気持ちにもなりました。何を言ってもやんわりと潰されるあの感じ。
それで、3時間ほど話し込んで私としては全然納得いく答えが得られなかったのに、その人は帰るとき「今日はすごく有意義な話し合いができた。ありがとう。」と言いました。
えーーーー。まあ、違いがよく分かったという点では有意義だったと言えるけど・・・。
でも、その人個人についていけないなと思っただけで、キリスト教は関係ないのかもしれません。
私にとってのひっかかりは宗教の内容や信仰ではなく、その人がその教えをどう解釈し、どう発信しているのか、ということでしたので。

その人のゴスペルにかける情熱、人に尽くそうとする行動力はとてもすごくて尊敬していて、親しみを込めて接してくれて、お友達になりたかったのですが、私は納得できないことをうやむやにできない、そういう人とはお友達にはなれないし、聞き続けられない性格で、しかも、その人と沢山喋る=クリスチャンになる気持ちがある、もうすでになってるんじゃないの?という誤解を生んでいるようなので、ゴスペルはやめました。私は基本的には八百万の神という考え方が好きだし、その気もないのにそういう誤解を生むのは、クリスチャンの方に失礼だとも思ったので。
ちなみに、この「戦争はなくなるはずだ」の話をゴスペルを習っている人に聞いて見ると
「そんなこと言ってたっけ?」
「聞いてなかった」
「へーと思うだけで、別になんとも思わなかった」
「納得できないけどゴスペルは面白いから続ける」
など、返事は色々でした。だから、その人だけのことじゃなくて、私が何かそういう言葉に引っかかりすぎる人なのだと思います。

そうそう、宗教と言えば「お金持ち信仰」というのもありますね。
お金がないと消費しないとダメ人間みたいな考え方。その人達とも全然話が通じません。
例えば美術館などに行っても
「この絵はいくらぐらいか」「すごい高そう(な額ぶち)」みたいな話になる。
デッサンを指して、
「これがいいと思った」
と言ったら
「あんま色使ってないから安そう」
だって。それとか、ある時文楽に誘ってもらったのですが、いきなり
「今日は途中までだからね♪」と言うのです。へ?と思って聞いたら、
「○時までに行くと安い美味しいステーキのお店があるから行きましょ♪私の家族も一緒に」
だって。その文楽は、八重垣姫というお姫さまが後半狐に乗り移られてそのへんの変身シーンが一番の見所だったのに・・・・。
余ってるチケットで興味ないなら一人で行きたかった・・・。
その価値判断基準、ある意味小気味いいとも言えます。

ゴスペルのディレクターの人に対しても、小気味いいと思えたらよかったんだけど・・・。

今気がついたけど、その人のこと好きだから、自分色に染めたい気持ちが大きかったのかも・・・。


散文(批評随筆小説等) 小気味いいと思えたらよかった Copyright ふるる 2007-01-29 12:18:02
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