■批評祭参加作品■ 金(キム)は好きなんだけど、
いとう



川島なそさんの「馬野幹 『金(キム)』を読む」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=100170


えー、金(キム)のくだりはとても好きなのですが、
最後のほうの文章、なんだかとても気にかかって、
ちょっと書くことにしました。
普段ならまぁ気になってもスルーすることが多いのですが、
せっかくのお祭りだし(笑)。ということで。



とりあえず長いけど引用します。


 私は、「詩と“私”は別物」であるとか、「詩は作者自身の思想とは一致しない」という考え方が嫌いであるというか馬鹿馬鹿しいと思っている。さんざん自分の脳内や内面からなけなしの想像力を搾り出して書いておきながら、いざ作品になった暁には、「それは私ではない」と言いたがる、ずいぶん都合の良い話もあったものだ。しかし、多くの人がそういうことを言いたがるという事実にはやはり理由がある。「私」から切り離した詩を書きたいが、書けないからである。詩の中に自分の刻印を認めるのが恐ろしいのである。そこで、私たちは「イメージ」という便利な言葉を発明し、誰のものでもないが何かを感受させてくれるものを作り出そうと必死になる。しかし結局、イメージとは、「世界」と「私」が関係を取り結ぶ手段でしかないのだから、「私」の指紋がつくのは当たり前だし、逆に言えば、そうした私的なイメージでなければ、別の場所で同じように「世界」と「私」の関係を結ぼうとしている読者に、共有されることはない。だから、私たちは徹底的に「私」にこだわって詩を書いていかなければならない。「詩」が恥ずかしいほど「私」に似てしまうことを、引き受けていかなければならない。そして「批評」もまた同じである。


んで、俺的にはツッコミどころ満載なのだが、どうなんしょ?(笑)
以下ツッコミ部分挙げていきます。


<ツッコミ1>

詩を書いている最中における「詩」と「私(作者)」の関係性と、
作品を発表した後における「詩」と「作者(私)」の関係性を、
思いっきり混同している。


<ツッコミ2>


「私」から切り離した詩を書きたいが、書けないからである。詩の中に自分の刻印を認めるのが恐ろしいのである。


「書きたいと」か、「恐ろしい」とか、
他人の詩作姿勢を勝手に想像して規定してもらっても困る。


<ツッコミ3>

詩を書く場合において、
(と書いておかないと混同されている部分を切り離せないので)
“詩から私を切り離す”なんてことが不可能なのはあたりまえであって、
その不可能性からできる限り離れるために、
「詩から私を切り離す行為」ではなく、
「詩から私を切り離そうとする姿勢」が求められているわけであって、
そのあたりまえの部分を前提として、


私たちは徹底的に「私」にこだわって詩を書いていかなければならない。


と言うのは、かなり本末転倒だと思われる。



以上、3点。
なんだか批判になっちゃってますが、
まー、たまにはそういうのも。
で、くどいようですが、金(キム)のくだりはとても好きです。
てな感じで、このツッコミは、川島なそさんの批評文全体に関するものではないし、
批評文の趣意からは外れたところでの、ちょっとした引っ掛かりみたいなものです。




散文(批評随筆小説等) ■批評祭参加作品■ 金(キム)は好きなんだけど、 Copyright いとう 2007-01-08 14:26:10
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