詩を書く時、詩を詩たらしめるために、韻律という要素は欠かすことの出来ない大きな要素となる。頭韻や脚韻などのいわゆる押韻とリズム、詩の音楽的な要素のふたつを合わせて韻律と呼ぶ。
日本の詩の淵源が和歌や俳句などの短詩型文学にあることは明らかだ。それら七五調の形式と中国から伝わった漢詩、この二つが日本の詩のルーツのうちのひとつである。七五調のリズムが日本人にとって心地よいものであるという定説もあって、短歌や俳句はいまでも捨て去られることなく生きのびている。それに加えて、明治時代になって移入された西洋詩の形式があり、これは新体詩の運動を惹き起こして現在の現代詩の礎を築いている。この時期の島崎藤村の詩を見ると、日本古来の七五調のリズムが全体にわたって駆使されているのがわかる。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
(島崎藤村「初恋」より)
有名な「初恋」の第一連である。ここではすべての行が七五調のリズムに支配されている。「まだあげ初めし」でいったん切って、次の「前髪の」へとつづく。他の行も同様で、実に見事に〈七・五〉のリズムで一貫している。和洋折衷というか、西洋から移入してきた形式を日本古来の七五調に乗せてうたっているという趣きがある。
大正時代になって登場した萩原朔太郎は、一般に口語自由詩を確立したという評価が与えられているが、第一詩集『月に吠える』を見ると、完全に自由な詩を書いていたわけではなく多少前世代の影をひきずっていたことがわかる。
つみとがのしるし天にあらはれ、
ふりつむ雪のうへにあらはれ、
木木の梢にかがやきいで、
ま冬をこえて光るがに、
おかせる罪のしるしよもに現はれぬ。
みよや眠れる、
くらき土壌にいきものは、
懺悔の家をぞ建てそめし。
(萩原朔太郎「冬」全行)
こんな詩を見ると、どこが口語自由詩なんだと言いたくなってくる。「現はれぬ」「建てそめし」などいかにも文語調だし、七五調の残り香が漂っているような感じもする。だが、萩原朔太郎の詩で現在につながるものとして注目すべきなのは、次のような詩だろう。
みつめる土地の底から、
奇妙きてれつの手がでる、
足がでる、
くびがでしやばる、
諸君、
こいつはいつたい、
なんといふ鵞鳥だい。
みつめる土地の底から、
馬鹿づらをして、
手がでる、
足がでる、
くびがでしやばる。
(萩原朔太郎「死」全行)
一読、実に単純な構成の詩であるとわかる。四行目の「くびがでしやばる、」までがAパートであり、つづく三行がBパート。そして最後の五行がAパートの変奏となっている。〈A・B・A〉という形式でリズムを作り出しているのだ。歌でコーラス部分を繰り返すのにも似ていて、こういう形式は中原中也などもしばしば使っている。
萩原朔太郎が現代詩の祖先だとするなら、現代の口語自由詩というものがその影響から逃れられないのは当然だと思われる。萩原朔太郎が「口語自由詩を確立した」と言われながらもその詩から韻律を完全に排除したわけではないのだから、現代詩にも韻律は生き残っていくことになる。
一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない、
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した
聴け、
雨のふるあらゆる都市、鎔鉱炉、
真夏の波止場と炭坑から
たったひとリの飢えた子供の涙がいるばかりに、
四千の日の愛と四千の夜の憐みを
われわれは暗殺した
記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像カと四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなけれぱならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であリ、
われわれはその道を行かなければならない
(田村隆一「四千の日と夜」全行)
これも萩原朔太郎の前出の詩と同じ〈A・B・A〉のサンドイッチ形式だが、この詩の場合は真中のBパートの比重が高く、萩原朔太郎の詩と比べると明らかに長くなっている。それがそのままこの詩の長さに直結しているのだが、「見よ」「聴け」「記憶せよ」という命令形をそれぞれの連の冒頭に配置し、さらにその後につづく行も「一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに」「たったひとリの飢えた子供の涙がいるばかりに」「一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに」(各連の3行目・4行目・4行目)「四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を」「四千の日の愛と四千の夜の憐みを」「四千の夜の想像カと四千の日のつめたい記憶を」(各連の4行目・5行目・5行目)「われわれは射殺した」「われわれは暗殺した」「われわれは毒殺した」(各連最終行)となっていて、それぞれの連で同じような言い回しを用いることによってリズムを作り出している。基本となる言い回しの変奏をつづけているとも言えるが、このようなリズムのつくり出し方は明治時代の新体詩には見られなかったものだ。新体詩が新しい詩を標榜しながらも結局のところ日本古来の七五調のリズムで書かれなければならなかったのとは違い、ここではそうした古い韻律を排除して、萩原朔太郎直系の口語詩にふさわしい韻律を採用している。
現代が多様性の時代であるのと呼応するかのように、日本の現代詩も多様な姿を見せていく。当然のことながら、韻律もたったひとつのパターンに縛られることはなく、作品によって様々なリズムをつくり出していくようになる。
秋のあらしのあしおとの曲りくねり
うねりめぐる空気の蛇のきらめく肌
にふぢいろにふるへるふしだらな伏
し目の夫人ほうほうぼうぼう骨のホ
ルンを吹き鳴らせばそれは空にむか
って果てもなくふくらむ透明なトオ
テムポオル唐草絡ますコリントの柱
りらりらぷるんらりれろれるりらラ
マの蘭塔より沙漠のサボテンよりは
るかにはるかに晴れわたる白昼の闇
を破って沸沸と噴きあげる白い噴水
(那珂太郎「秋の・・・」より)
あさ八時
ゆうべの夢が
電車のドアにすべりこみ
ぼくらに歌ういやな唄
「ねむたいか おい ねむたいか
眠りたいのか たくないか」
ああいやだ おおいやだ
眠りたくても眠れない
眠れなくても眠りたい
無理なむすめ むだな愛
こすい心と凍えた恋
四角なしきたり 海のウニ
(岩田宏「いやな唄」より)
ここに引いた二篇は、いずれも韻を踏んだ詩の例である。那珂太郎の詩はa音の「秋」「あらし」「あしおと」の頭韻で始まり、そこから次第に音をずらしていっている。「あしおと」の後は「曲り」で同じa音ではあるが、「曲り」は「曲りくねり」で直後の「うねりめぐる」へとつながっている。「うねりめぐる」の頭のu音は「空気の蛇の」の頭のu音へとつながり、「空気の蛇の」は「きらめく肌に」のk音とh音へとつながっている。そこから先は「肌に」につながるh音(ハヒフヘホのハ行の音)の連鎖がつづいている。このようにして、この詩は韻をどんどんずらしていくような書き方がされている。
いっぽう、岩田宏の詩の場合、はっきり韻を踏んでいるとすぐにわかるのは、行頭を下げた終りの三行だけだ(「ゆうべの夢」「電車のドア」など、頭韻を踏んでいるように見える箇所が最初の方にもあるが、それはさほど目立たない)。「無理なむすめ むだな愛」は「む」の音で始まる言葉を三つ並べ、「こすい心と凍えた恋」は「こ」の音の言葉を四つ並べている。「四角なしきたり」「海のウニ」も同様だが、さらにここではそれぞれの行末で脚韻を踏み、おまけに「無理」と「愛」、「こすい」と「恋」、「しきたり」「海」「ウニ」と、同じ行の中でも韻を踏んでいる。いっけん簡単な言葉の羅列のように見えるが、韻が複雑に絡み合っているのだ。引用部分の前半でも、最終三行ほど目立たないが韻への意識というのは徹底されている。さらに言えば、短い言葉をつなぎ合わせていくことによって生じる独特のリズム感もあって、それはこの詩全体を通して貫かれている。
このように、近代詩から現代詩へと移り変っていく過程において、旧来の七五調のリズムではない新しいリズムを生み出そうという試みが多くみられるようになった。だが、それとともに詩が際限なくだらしなく広がっていくような現象が現代詩全体を静かに侵食していく傾向が見られるようになり、やたらと長い詩や散文詩がその延長上で発生するようになった。詩に韻律の危機というものが訪れたのである。
?時は今?
吠えつづけて唄いつづけるオーストン氏の
黒いひたいから 時がいま いまと
こぼれるので
おしゃれな彼のピンクのシャツも全く濡れて
そのズボンの中にしまわれてる
2本のチョコレエト色の足が
グレエトデンのように突然 狂暴に
欲情し 床をけり はねはじめるのだ
?時は今?
今 はどこにいてどこに生えてるの? なんていわない彼は
彼はちぢれた髪にこてをあて3センチほどの高さにカールをつくる それが彼の今だ
(白石かずこ「Now is the time」より)
わが帰趨は明確には決し難い。勿論決着の意味するところは解り切っているし、それはどうあったところで、決しかねていた旧の状態を殊更に好転せしめるとは言い難いものなのだ。だから帰趨するところは、ある種の愚直な言訳をつねに背後におかねばならぬ。事実私の知覚に於いて最も愚直なものが、つねに私を支えている。たとえば、とある瑣事の法外な私への侵害をようやく阻止し得たあとで、その帰結を省みると、私は自らが全く巨大な舌として瑣事の進行を舐めずっていたことに気づくことがある。つまり私を支える感触が、時折猛烈な勢いで私を最も貪欲な本来の形状につきもどすのだ。その為私の運動の推移に沿って、道々涎の如きものが、あきらかにその痕跡を印している。例えば私の妻の腹部にその痕跡をみることがある。妻が極力それを避けようとしたであろうと想像するに難くない非常な困乱した形状で、さながら迷路のように入り組んだままで、それは彼女の下腹部に至っている。
(粒来哲蔵「舌のある風景」より)
ここまで来ると、書き手の中で韻律の意識は明らかに薄れていると言わざるを得ない。詩を書くに当たって、韻律と内容の両者を天秤にかけて、韻律を犠牲にして内容(言いたいこと、書きたいこと)を優先しているのだ。そして、こういう詩の場合、内在律というものが問題になってくる。七五調や脚韻やソネット形式のように表面化はしていないけれども、詩の内部の見えないところに潜んでいるリズムのことを内在律というのだが、それは目に見えないから幽霊のようなもので、ひとりひとりの書き手が自分の感覚を信じて組み立てていく他ないものだ。内在律というのは、行分け詩の場合は改行の仕方に、散文詩の場合は文章のリズムというものに、それぞれちらっと顔を出す類のもので、ここを失敗するととたんに詩がだらしなく見えてくるという何ともやっかいなものだ。つまり、逆に言えば、自由詩が「自由」を獲得するために韻律を犠牲にしたことと内在律の難しさは正確に比例していることになる。このへんに現代の現代であるがゆえの難しさ、詩に当てはめると、多くを語るために形式が崩されていくということ、その困難が露呈していると思うのだが、そのへんはまた別の話だろう。一時期、九〇年代に入った頃だったと思うが、飯島耕一が「オジヤのようになった現代詩」に異議を唱えて定型詩を試みたことがあったが、それも現代であるがゆえの困難の延長上で現代詩を回復させるための試みのひとつだったのだろう。
時は流れ、時は二十一世紀の扉を潜った。ここに来て、日本の詩は新たな段階に入りつつあるように思える。歴史がひと回りしたのだろうか。韻律ということに話を絞っても、古典的な七五調を詩行にまぎれこませる者もいれば、自由詩的な内在律のみで書く者もいるし、シェイクスピアばりのソネットを楽しむ者もいる。それらの韻律の混合したタイプの詩もある。まさに何でもありといった感じで、現代的な混迷の度がさらに深まっているとも言えるが、いまここにある詩、いま書ける詩を、それぞれがそれぞれのリズムで生み出している。リズミカルにステップを踏みながら、詩は相変らず詩でありつづけているのだ。
(二〇〇七年一月)