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重くて痛い。
安寧があるとすれば、ここに肉体的暴力がないことだ。
どうしても自分と重ねてしまう。
俺はこの歳になるまで生き抜いてきた、と。
それは同時に、
この歳になるまで生きてしまっていると同義だが。
たぶん死ぬまで、
“助けて”とつぶやき続けるのだろう。
誰にも助けられないことを知りつつ。
それは、わかる。
以下批評。努めて客観的に。
焦点が作品内の流れで変わっている。
前半は、愛について。
中盤は、社会について。
そして後半は、責任について。
君が感じたその重荷は、母親が感じていたものと同義だ。
逃げたとすれば、母親と同じ罪を、君は背負っている。
そして、監督としては提起も含めての作品なのだろう。
それは成功している。
当事者自身は(比較対象を持たないので)客観性を持ち得ないが、
その客観性を作品からは受け取れる。
逆に言えば、その客観性を持つことができるのは、
知らないのか、
知っていてなお、正視できるのか。
どちらか。
しかし、知り合った女子高校生(?)が援助交際で得た金を受け取らなかったシーンに、
「あ、知らないのだな」と、感じる。あの状況で、そんな余裕はない。
あるいは、そんな善悪の判断を持てるほどの社会性を、
当事者が持てるわけがない。 やはり「知らない」のだ。誰も知らない。
知っている者にとっては、
傷口をえぐられるだけの作品だ。
監督自身に傷があるのかどうかは、
作品を通しては伝わらない。
たぶんないのだろう。Fuck!
生きることに余裕があるから、
この作品は作られたのだ。
そして余裕のある人間が、巷には溢れている。
批評祭への作品参加は
たぶんこれで打ち止め