■批評祭不参加作品■ノン・レトリックより■この文章は古いから祭には不参加!
佐々宝砂
詩で食ってゆく、とは、必ずしも詩集を売ることじゃない。俳句で食ってるヒトは詩で食ってるヒトより多いけれども、それは、句集を売って食ってるんじゃなくて、たいていは俳句を教えてお金にしている。たとえば老人クラブの俳句会かなんかにお呼ばれして、俳句を添削して小金をもらう。かなり大きな結社の主宰でもそういう感じ。中高生を相手にするならまだ希望が持てるけれども、教える相手が老人クラブでは……いんや、なかにはすばらしい才能を隠してきたというヒトもいるのだけれど、実際問題として、主宰の努力は涙ぐましいほど。
具体的に何がタイヘンなのかとゆーと、それは老人クラブ面々の実力不足でもなければ理解力不足でもない。タイヘンなのは、生徒に「書きたいことがありすぎる」、そうでなくとも「書きたいことが決まっている」こと。なにしろ相手は老人である。すでに人生深く厳しく生きていて、酸いも甘いも辛いも知ってる。夫を戦争で亡くしてるかもしれないし、幼い子供を不慮の事故で亡くしてるかもしれない。つまり、そのひとなりにすでにテーマを持っている。作品がつたないものであるとしても、そのテーマ自体は批判することができない。つまんない!といちがいにぶったぎってしまうことはできない。たとえほんとにつまんないとしても。それゆえ、あくまでテーマではなく技術的な問題に焦点を絞って俳句を教える、とゆーことになる。当サルレトのコンセプトも、まあ、同じようなものである。
そもそもテーマに貴賤はないということになってるけど、これは建前。事実上、テーマに貴賤はある。死(暗黒、悲哀、怒り)>生(明朗、誕生、喜び)>人生の機微(含友情)>恋愛>笑い>ナンセンス、ってな感じかしら。もちろんこりゃヒトによって違う。個人的には、「笑い」と「ナンセンス」を「人生の機微」より上に、「死」よりも「生」を上に置きたい。また、「死」をも「生」をも上回るテーマがあってそれは「至高」だと思うている(同義反復かもね)。
しかし、内緒のハナシだけれど、テーマは作者が決めるものじゃない。テーマは読者が作品そのものから探るものなんだ。国語のテストに「作者は何が言いたいのでしょう」という設問があって、その作者自身が模範解答とはえらく違う答を書いた、なんて笑い話があったけれども、それは案外事実なんだろと思う。とてつもないナンセンスで意味もへったくれもありゃしないよん♪というつもりで書いた作品が、もう恐ろしいほどの人生の暗黒を感じさせる、なんてこともよくあるんである。このことは忘れててもいいけどね。
誤解をまねかないように言っておくと、「このゆび」のテーマと、今私が問題にしているテーマとは別物である。「このゆび」で言うところのテーマは作者が選び取る「題材」で、私が言ってるテーマは作者に関係なく作品が内包する「主題」なんだ。たとえば失恋して哀しいとする。これは「題材」に過ぎない。子供を亡くして悲しい。腕に蝿がとまった。アメリカでテロが起きた。お金をひろって嬉しい。猫が鳴いた。眠い。夕飯はラーメンだった。以上、どれもこれも「題材」に過ぎない。そして題材に貴賤はない。建前でなく、事実上、ない。涎とウンコと鼻クソからでも至高の美は生まれるのだし、無私の愛とて書き方ひとつで醜悪になるのだから。
実は、老人クラブの面々が持っているテーマは、この「題材」の方なのである。「主題」と「題材」はしばしば混同される。この混同がネット詩における諸処の問題を引き起こすひとつの原因だ、と私は考えている。話はとてもややこしい。
んなわけで(全然「んなわけで」じゃないけどよ)、わかったよーなわからんよーなたとえ話をしてみよう。
キミはおなかがすいていて、何か旨いものを食いたい。冷蔵庫を見ると、しなびたニンジンと一昨日買った豆腐の残りと卵がある。食品棚を見ると、インスタントラーメンとツナ缶がある。財布を見ると、金がある。時間的余裕はかなりある。さてキミはどうするか?
旨いものを食べるという目的を達成するために、キミがとるべき手段は3つある。1つめは、今そこにあるニンジンと豆腐と卵とインスタントラーメンとツナ缶で料理を作る。2つめは、出かけて行って外食するかできあいの弁当かなにかを調達してくる。キミのほかに料理できるヒトが家にいて、そのヒトがニンジンやら豆腐やらで「あるもの料理」を作ってくれるという場合も、この2つめの方法と意味は変わらない。
一見手軽なのは1つめの手段である。しかしこいつは技術力が必要だ。私は赤貧主婦なのでよく「あるもの料理」を作るが、これほど難しい料理はない。ニンジンと豆腐と卵とインスタントラーメンとツナ缶で何ができる? とりあえず思いつくのは、豆腐とニンジンで炒り豆腐、ラーメンのうえに卵をのせる、それくらいなものだ(ツナ缶は活用されてないね)。創意工夫と技術が必要で、しかも、ろくなものはできない。これはあまりおすすめの方法ではない。
誰かが作った料理を食べるという2つめの手段は、間違いなくいちばん手軽だ。一生のあいだ料理なんて作らんというヒトもいるし、それでも困らないで満足しているなら、それでちっともかまわない。しかし舌が肥えてきてそう簡単には満足できない、という事態に陥ってしまうかもしれない。そうなったら、高い金を払って高級料理を食べたり、どこか遠い土地に出かけて目新しいものを食したりしないと満足できない。そういうことを続けても、なおかつ、満足できないかもしれない。この方法を続けていると、不満の泥沼に落ちて、しかもその不満を他人のせいにしなくてはならない、ということになりかねない。
まだ書いてなかった3つめの手段は、新しい材料を調達してきて、その材料で料理をつくるという方法である。間違いなく、この方法がいちばんいい。まだ舌が肥えてないならば、多少の技術力で、かなり旨いものが食える。かなり満足できる。舌が肥えてるとしても、技術力とよい材料を揃えるだけの財力気力があれば、満足できる可能性が高くなる。満足できないとしても、その不満を他人にぶつける必要はない。自分の努力が足らんのだろうと考えて、料理の修行に励むがよろし。
しかし、この3つめの手段とて、泥沼を逃れることはできない。キミは旨いものが食いたかっただけなのだが、途中で目的が旨いものを作ることにすり替わっているのだ。旨いものを作ったなあと自分で満足したら、それをヒトサマにも食べさせたくなるかもしれない。しかし旨いと思うのは自分だけで、ヒトサマにはまずくて食べられないかもしれない。自分じゃまずいと思っても、ヒトサマは旨い旨いと喜んで食べてくれるかもしれない。そうするとだんだんわからなくなってくる。そもそも旨いってなんだ?
旨いかまずいか断定してくれるエライ人というのが料理マンガに不可欠なのは、そういう理由なんである。このエライ人は、味の好みに偏りがない。甘いのがキライとか苦いのはダメとか言っていては、お話にならない。甘かろうと苦かろうと、旨いものは旨い!のである。料理マンガはそういう認識を前提にしている。生臭いからレバーはダメなのよというヒトにレバーをおいしく食べさせる類の話が料理マンガによく見られるけれど、これも、要するに「旨いものは旨い!」という話なんだ。
(2001.09/15 初出詩人ギルド レビュウズ「サルでもわかるレトリカル」より「ノン・レトリック2」)
「このゆび」とは、詩人ギルドに当時存在したテーマ詩掲示板。
現フォでいうと「創書日和。」みたいなもの。
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第2回批評祭参加作品