批評とは何かを考えるときに、
料理をどのように評するかを考えると、
なんとなくわかりやすくなるのかもしれない。
美味しい、不味い。これも批評だ。感想かもしれんが。
広義において批評にしておく。
「まったりとした食感をこのさわやかなオレンジソースが〜」
なんてのも批評だ。テレビでよく見かけるよね。
これは印象批評に近いのかな。
他にもあるだろう。
「あ、この味は故郷で食べたあの!(その後号泣)」
とか、
「あそこのペペロンチーノに比べるとこの店のはちょっと…」
とか。
これらも批評でいいじゃんって思うことがよくある。
よく、
「作者が詩だと思ったらそれは詩なのだ」という定義付けがなされることがあるのだけれど、
だったら、
「作者が批評だと思ったらそれは批評なのだ」
という定義付けはなされないのだろうか?
構造としては同じなのだけど? どうすか?>そのへん
批評の仕方はもっとある。
「このスパイスが少し足りないような」
「ここでこの隠し味を入れるともっと美味しくなるよね」
とか、これは、
料理の得意な人が言いそうな批評。
もっと別に、
「蛋白質●%に対しては、グルタミン酸を●●グラム投入したほうが…」
こういうのもアリだろう。科学的アプローチだ。
調理方法からのアプローチもある。
「この食材の火の通し方が…」とか、
なんかもっと、いろいろありそうだ。
料理について述べるのに、思いついただけでも、こんだけのアプローチがある。
ということは、だ。
これ全部、詩の批評でも通用すると思うのだけれど? どうでしょう?
なんかそんなこと考えてると、何でもいいような気もしてくるのね(笑)。
大雑把過ぎるかな? でも、それでいいとも、思う。
自分が批評するときに、
なるべくしないでおこうと思うことがある。
「なるべく」とあるのは、
気づいたらやっちゃってることが多いからだ。申し訳ない(笑)。
で、それは、
肉屋で魚を売っていないと騒ぐこと。
肉屋なんだから、魚がないのはあたりまえだけれど、
魚が欲しいからと言って肉屋で騒ぐ必要はないよな、と。
「カレーにこのスパイスが入ってない」とか、そういうのはOKだと思う。
それと似てるんだけど、ちょっと違う。
その違いは、じつは言ってるほうも言われたほうも、
わかってないことが多々ある。
そういうのも含めて、
自分はまだまだだなぁと思うことが、よくある。反省。
<おまけ>
水在らあらあさんの「あるところに」。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=97831
これ、最後の連、
あるところに男と女がいて
であって 好きあって
子供ができて 家庭を持った
世界は美しくて
輝きに満ちて
この部分、夏野雨さんは、
最終連、その波の崩れゆくさまをそれでも美しいという。「ここ」に立つ自分の、強いまなざし。涙と恐れもつそれこそが、世界を愛するまなざしではないだろうか。
と評したのだけれど、
(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=99933)
俺はまったく正反対の読み方をしました。
「美しく輝きに満ちた世界」が、
“やってくる”のが、怖いのだと。
「あるところ」とは、「美しく輝きに満ちた世界」だ、と。
それを怖れる話者の破綻性。
世界を“恐怖する”まなざし。
あるいは、
「美しく輝きに満ちた世界」という表現に、
逆説的意味を持ち込んだ、
作者の技術の高さ。
そういった目線で読みました。
言葉を言葉通りに受け取ってはいけないことは往々にしてあると思う。
特に詩においては。本当に、特に。本当に。