鵜飼千代子さんのプロフィールBBS
2010 10/09 16:38[215]
鵜飼千代子

海路をお送りしたときに、筧さんにいただいたお葉書です。
http://homepage.mac.com/tmoegi/BW/BW/1info/pp/kairei14/kairo.html



右側が2004.5.20 左が2004.5.24です。

右のお葉書をいただいて、わたしは手持ちの「同音同訓異字辞典(柏書房)」で調べましたとお返事しました。それについて、いただいたお返事です。こうして筧さんに、評価するということだけでなく、育てていただいていたので、山脈の同人ではないですけれど、恩師だと思っています。

詩人クラブの千葉大会に参加した時には、窓口が村山さんだったので、筧さんのところに通していただいたのですが、ホテルの居室での山脈会の飲み会でも、森常治さん(森鴎外のお孫さん)とのお話を聞いているうちに、自分のことではないのですが、受けとめるところがありました。それから、「金木犀零れる」の載っている詩誌が詩人クラブで配布されるなど、そうした時期もずっとそばにいてくださり、一読された後、うんうんと強く頷いて目をつぶって下を向いていらしたことが思い出されます。2003年末に「宴」を制作し、2004天彦さんのお宅に伺うことになるまで、例会参加の時にはずっと、例会の時は筧さんの隣りに座り、二次会は筧さんについて行っていました。

天彦さんのお宅に伺った後か、ネパールとの合同詩集『花束』第二集2004.1.30の後かわかないのですが、例会時、詩人クラブの宴会の時は筧さんの側に、お開きの後は、天彦さんに(2.3回)飲みに連れて行っていただきました。もの凄い英才教育です。一生忘れてはいけないと思います。

筧さんは、中学高校の先生を経験されていて、「子供はもういい」と仰られながら、パソコン通信から連れて来られた詩壇に身寄りのないわたしを哀れと思ってくださったのでしょう。山脈の同人でもないのに、弟子のように親身になって教えていただきました。

天彦さんが二次会でわたしを連れて行くようになって、筧さんはほっとしていらしたのではないかと思うのですが、筧さんは断固として山脈にわたしのことを載せませんでした。仙台大会など、山脈の方がとった写真をわたしに送ってくださったことはあったのですが。「家には同人で鈴切さんの娘(わたしのひとつ年上:後日直接伺ったらもう少しお姉さんでした)がいますから」と、無言でアピールされていました。(自分の娘は自分で面倒を見ろということだと思います。)



「海路」の写真を撮りに天彦さんのお宅に伺った時に、「自分はもうすぐ死ぬから、川島完か、丸山勝久の詩誌に入らないか?話をしてあげるから。」と言っていただいたのですが、前回の千葉県詩集での詩評での「いいことばかりは書けないから、諌川さんは優しいからいいことを書いてくれるからハガキを書いてあげるから」という前例もあるので、断固として「天彦さんじゃなければ駄目なんです(わたしのフィールドを取りこぼしてしまう)」とお返事して「あなたの詩が好きじゃない」と切り返されてしまいました。 

門扉を出て車に乗った後、涙が滲んだのですが、そんなことを言っている場合でもないので家に帰りました。

山脈筧さん追悼号での諌川正臣さんのお言葉の一部です。

 >天彦さんが会長の時、名簿の広告を詩集関係の出版社だけでなく酒造会社にも声をかけてみてはとの話があった。最寄りの酒店で資料を借りて調べたところその数の多いのに驚いた。大手の酒造会社は相手にしてくれないだろうから除外し、あまり有名でない銘柄はと思案していた時、筧さんから何かと助言を戴いた上に、奈良県や福島県の親しい所に一筆書いて下さって、四十社程に依頼状を出したが、清酒業界はビールや焼酎に押されて経営も苦しいらしく結果的には零回答に終わった。このことを通じて、いいお酒を選んで楽しまれている筧さんの一面を知った次第 。

日本詩人クラブの現代詩研究会に参加し、佐久間隆史さん、三田洋さん講師の合評会で、講師からは大変学ばせていただきましたが、フィールドを受けとめるいい機会を持たせていただいたと思っています。