2010 08/15 10:06[131]
鵜飼千代子
ファイルを探しているうちに10時になってしまいました。昨日、きっぱり言ったのに。。。
智恵子の田村別荘の調査レポートを詩人クラブに出した時の写真か何かあるかなと思ったのですが、見つかりませんでした。そのころの日記が残っていたので、貼付けます。
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<< 智恵子の田村別荘がないのですが。。。 >>
2001/06/26 (Tue)
昨日、九十九里に行ってきたのです。この前は九十九里に行くつもりが成田付近で迷って、銚子に行ってしまったのですが(笑)、船乗りの方とお友達になりました。なんと、フグが砂浜に打ち上げられていて、「誰か、置いたんじゃないか?」と、ちょっとだけ疑ってしまいました。
で、昨日は少し迷ってドライブになったものの無事に九十九里に行けたのですね。むしゃくしゃを海水に洗ってもらうというか、そんな感じで、波打ち際でアサリを掘ったりしていたのですが、「片貝に行ったらお約束」の智恵子の別荘に行ったのですが、「無いんです」。。。建物が。なんで?どこかに移設されたのでしょうか。塀はあるんです。立て看板もあるんです。平成10年に建立された詩碑もあるのですが、肝心の「家が無い!」んです。窓の外にあった、オバケのようなサボテンもないんです。変わりに見たことも無い赤い花が咲く木が植えられていました。「田村別荘」というのは、智恵子が九十九里で療養していた時に住んでいた別荘なのですが、誰か建物を「お持ち帰り」してしまったのでしょうか。クレーン車かなにかを持って来て。こいうのは、誰に聞けば良いのでしょう。以前の管理は、市がしていたようなんですね。はじめて行った時には、ボロボロで庭も草だらけだったのですが、その後、塀も綺麗に直されて割れていた玄関のガラスも新しく入っていたので、自分のことでも無いのに安心していたのですが。。。また、プラスチックトタンの塀が壊されていたので、誰かにイタズラをされてしまったのかもしれませんねぇ。どうなってしまったのか、知っている方がいらしたら教えて下さい。普段なら直ぐに市に電話をして訪ねるのですが、怖すぎて電話出来無いです。^^;
さて、今日も個展の準備です。難しい顔をしながら張り切っています。(笑)
萌木碧水
<< 暑いですねー。。。毎日。 >>
2001/07/23 (Mon)
詩人クラブの例会に参加するときに、村山さんに伺いました、九十九里の田村別荘のこと。(高村光太郎は、詩人クラブの会員です。《でした、かな?亡くなっているから、物故会員?》)さっそく千葉在住の詩人クラブの方に電話をして下さったのですが、やっぱり、取り壊してしまったそうです。管理の面でむつかしいことがあったようですね。
わたしがはじめて見にいった時は、玄関のガラスは割られ、塀の波トタンは破られ、日焼した白いカーテンには、窓がかいた汗でたくさんの茶色いシミが出来ていて、庭には、軽自動車の廃車が乗り捨てられていました。数年前に修繕されて、随分と人の住む家らしくなっていたのですが、イタチごっこのような部分もあったようですね。田村別荘は町の管理なのですが(土地は国有地)、村山さんのお話だと、移設するときのために、柱は町で残してあるとのこと。けれど、それも実現はむつかしいようです。九十九里町も大網白里町も、とても小さな町なのです。わたしの家からは1時間ちょっとの場所なので、何枚か現場(?)の写真を撮って、村山さんには現状の報告をしました。建物があっても管理が大変なのですが、無くなればますます忘れ去られて、草ぼーぼーになることは目に見えているので、風で掻き消される風紋のようにいつか場所すらわからなくなってしまう前に、なんとかならないものなのかなぁ、、、と思うのですが、責任の所在が分散していて、難しいことがたくさんあるのかもしれません。
この機会に、福島二本松にある「智恵子記念館」に行ってきました。ここは、以前 FPOEMの1番(月華)であじさんに教えていただいたのですが「いつか行きたい場所」とストックしていたもので、その《ちっちゃな夢》が実現したのですね。新幹線の時間があって1時間ほどしかいられなかったのですが、智恵子の生家もみられて、良かったです。残念だったのは、切り絵(紙絵)の実物は展示されていないということですね。智恵子の切り絵というのは、九十九里での療養も難しくなり、品川のゼームス坂病院に入院しているときに、お見舞いに来る光太郎のためだけに製作された、極々プライベートなもので、看病をしている姪にも見せることがなかったということなのですが、色紙や包装紙などを使って製作しているために、常時展示では、紙がやけたり、色あせたりしてしまうようなのです。智恵子抄の最初にも載っている智恵子の切り絵は有名なのですが、九十九里の砂浜で時間という概念と切り離されてずっと座っていた智恵子が、九十九里での療養期間に、何らかのものを身の内に育んでいて、その後製作する切り絵に昇華した、、、と考えるのは、ちっともとっぴではないと思うのですが、、、<まだ言ってる。
智恵子記念館で所蔵している切り絵はわずか5点です。大きな美術館で催される「智恵子の紙絵展」の方がたくさんの実物を見られます。智恵子記念館でも、年に3回、5点のうちの3点を1週間ほど展示するそうです。智恵子記念館にお出かけになるには、この時期がいいかもしれません。智恵子記念館の外にあるお土産屋さんには、初版復刻版の残部もあります。こちらも、要チェックです。
今回は時間がなくて行けなかったのですが、智恵子記念館の裏にある智恵子の杜公園にも、次回は行ってみたいですね。
智恵子の紙絵 実物展示の予定
平成13年8月11日(土)〜8月19日(日)までの9日間
平成13年9月29日(土)〜10月8日(月)までの10日間
智恵子記念館
http://www.abukuma17.fukushima.fukushima.jp/meguri/sanpo21.html
萌木碧水
<< 復刻版ではないらしい。。 >>
2001/07/25 (Wed)
智恵子記念館に行った時にぱぱっと選んで送っていただいた本が届きました。わたしが買った「詩集 智恵子抄」は、復刻版ではなくて、愛蔵版ですね。「詩集 智惠子抄その後」は昭和25年初版の39刷なのですが、その本の帯には、「智惠子抄 第82刷」という広告があります。すごいですね。「智恵子抄(正確には智惠子抄)」と書くだけで売れる、という時代があって、色々大変なことがあったようですね。そんなことが一緒に買ってきた「智惠子抄の五十年/龍星閣」に書いてあります。ぱらぱらと読んだだけなのですが。一方から出された書物のみを鵜呑みにすることは出来ませんが、いつの時代にもあるんですね、こいうこと。「光太郎智惠子」の帯には「・・・二人が生きていては発表できなかったものだけに・・・/「サンデー毎日」書評」なんて書いてあります。本人が亡くなっても、親戚は生きているんですけどね。ロボじゃぁないんだから。なんだか、無神経な書評のような気がしますけど。少し読んだだけで、夏痩せしそうな内容です。ゆっくり読みましょう。
時代もあるのでしょうが、どんなものでも自分が出したくて出すものはすべて本人の自由だし後先も本人が背負うものですが、本人が出したくないものってのは、どうなんでしょうね。考えちゃいますね、本当に。
わたしは自分が了解したもの以外を出されるのは、絶対に嫌ですけどね。自分が死んでも。
萌木碧水
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なんだか、とほほな文章ですね。ふるるさんの手足となって調査をしてきて、ふるるさんに文章を書いてもらいたいくらいです。(/_;)
田村別荘の近所に(これは後年かもしれない)聞き取りもしたのですが、町の管理だけれど、管理者の株のようなものがあって、管理者も高齢なので亡くなって次の高齢の方へ譲られるということが続いていたようなんですけれど、家が取り壊される寸前にその時の管理者が入院して、その間に取り壊されたということなんですね。誰が株を持つかということでのゴタゴタもあったみたい。真偽の程は、調査不足だと思いますが、目の上のたんこぶだったのかもしれませんね。「智恵子の海」というお菓子を作って売っていたり、地元でも出来ることを精一杯されている印象をもったのですが、集客がなければ、淋しいばかりです。(田村別荘で検索していただくともっとしっかりした文章を書かれている方のテキストが読めます。)
村山さんのお陰で、田村別荘の柱の在処はわかったのですが、相談する場所は日本詩人クラブではなかったようです。ひとりの詩人について状況報告を受けて、立て直しに援助をする団体というわけではないのね。もう一押し、別のところに相談に行けば良かったのかもしれないけれど、諦めてしまいました。金子みすゞを表に出すのだって、すごく大変だったようです。金子みすゞも奇跡の詩人なんだと思います。