ボート/杉菜 晃
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- kaz 
>岸に柳が一本
>人待ちふうに立つてゐるだけ
ここが一番印象に残りました
この描写が無かったら ここまでボートが
くっきりと浮かんでは見えなかったかも知れませんね♪
追記
正直なところ どう書けばいいのかわからないのです
でも苦しんでおられる様子が伝わってきて
私信で書こうかとも考えましたが
このように表で語っていただいた以上
僕もここで書くことにします
僕はクリスチャンじゃないし 神に関する本を読んだことは
皆無に等しいので 神に関するコメントは控えさせていただきます
僕の杉菜さんの作品の見方が変わった点を書こうと思います
あくまでも 僕が感じたことですので 議論しようという気持ちではありません
杉菜さんの神への愛が絵画的な言葉な詩になってたんだなぁ
論文・評論形式だと どうしても難しいものになってしまいます
読み手にどれくらい知識があるのかていう問題もあります
詩のスタイルで続けていくってのはどうでしょうか?
伝えたいことが不十分かもしれませんが
伝えたいことを存分に書いたURLを作者コメント欄に貼り付けてみたりしてみるのもいいかも知れません
こう着状態になってしまうのは誰もが望んでいないと思います
- 未有花 
- やぎしき 
- 恋月 ぴの 
- こめ 
- ぽえむ君 
- LEO 
- 石瀬琳々 
ボートに乗せるもの、想像がふくらみます。
- ルナク 
- ふるる 
- Rin K 
- 前田ふむふむ 
- 水在らあらあ 
- もも うさぎ 
いいですね。。。とても。
- はだいろ 
 
作者より:
これは「ボート」の解説です。御霊が働いて、この文章を理解できたかたは必ず神の
国に入ります。

長くなります。とても長くなります。私信にするべきかと迷いましたが、ここに書くように言われましたので、〈もちろん神にです〉ここにします。
「現Fについて」を読み、強く共感して、コメントを書きました。これまで堪えてきたものがどっと出て、一種の切れる状態だったと思います。こんなとき犯罪は起るのでしょう。しかし私が抑えがきかなくなった時は、背後に神がいて、一緒になって怒っている場合が多いのです。そのしるしに、何時間か前に、「ボート」を投稿していたからです。
そしてボートこそ、神の奥義を語るために用意された作品だったのです。私はそれを告げるために現Fに遣わされたともいえるからです。以下はボートの解説ということになります。洗濯をしたり、中断していた書き物をしたりしながらですから、時間がかかると思います。のんびりしているからといって、たわいない由無しごとではありません。誇張ではなく、全人類の救済に関わる重大事です。    つづきます。
舟は伝統的に女性扱いにするといいます。したがって、ボートは女性を意味します。キリスト教では、花婿をキリスト、信者の集う教会を、花嫁と形容していますが、このボートはそういう総括的なものではありません。もっと個別な女性です。キリストを素直に愛する女性です。ボートは一艘ですが、一人ではありません。複数です。複数といっても、そんなに多くはありません。彼女たちこそ、正真正銘の花嫁です。キリストと一対一で交わる花嫁です。官能を目的としたものではありません。復活のいのちを生むための交わりです。人間なら男女が交わって、肉の子供を生みますが、
キリストとの交わりでは、肉を通して霊を生むのです。これが復活のいのちです。
神が私に教えた譬えでは、シダ植物の胞子が飛ぶように、霊のいのちを発して、過去から眠り続けている死者たちの霊を起こすというのです。このいのちを発する現象を、神は核融合反応とも教えました。
そのようなわけで、この花嫁たちには母の性質と、乙女の性質を兼ね備えています。母というのは、復活のいのちを生む母体であり、乙女はキリストの妻になるためです。
カトリックでは、聖母マリアが神格化されているところもあります。それは神の望むところではありません。聖母マリアはいくらキリストの母であるとはいえ、人間なのです。それなのに何故こんなにも長い間、神にもひとしく崇敬されてきたのでしょうか。
それはやがて、神の子供たちが、新しいマリア〈花嫁〉たちから生れてくることを示すために、素地として残してきたのです。新しいマリアたちを、人類が受け入れやすくなるためです。
この新しいマリアたちは、復活すべき者たちが全て復活した後には、天の国において、いのちのエッセンスともいえる霊気を配る器として働くことになります。やはりキリストと一対一で交わる器です。花嫁は永遠に花嫁なのです。キリストを離れては生きていけないのです。よほどキリストを愛するものでなければ勤まりませんね。
しかしそのように創られているのですから、無理はないはずです。蜜蜂であれば女王蜂、蟻であれば女王蟻です。  つづきます。
私は眠れるマリアたちを覚醒させるために叫んでいるのです。叫ばせているのは神です。もっと言えば神の霊、聖書で聖霊と呼ばれている神の位格です。この聖霊を拒むことは、もっとも大きな罪であると言われています。聖霊は聖域を築いて、悪しきものはその中に入れません。いくら妨害しようとしても、神域として守られるのです。
さて、ボートはキリストを迎えるために岸に来ました。今はもうそこまで時代は流れているということです。キリストを乗せたボートは、湖心へと岸を離れていきます。湖心は天国を指しています。天国はこのようにして、婚姻をベースにして進行していきます。
ここで肝要なのは、私はそんな重荷には耐えられないから、普通の復活でいいと辞退する場合です。人間はそれぞれ、はっきり目的を持って創られています。口として創られているものが、足になりたいといっても、それはできないのです。なお固辞するとしたら、いのちはいらないというのと同じです。
もう一つ肝要な点は、夫ある女性にも神の召しは及ぶ場合があるということです。その場合、逃げることは赦されません。ここは牧師も過ちをおかすところです。神がそんな無茶なことを言うはずはないと教えて、断ったとしたら、その牧師も裁かれること必定です。
神のお達しは厳しく、夫よりも神の独り子、キリストを愛さなければならないからです。神の厳命が下るということは、もともと結婚すべきではないのに、誘惑に負けて結婚してしまったのでしょう。
しかし逃れる道は一つ。とにかく召しを受け取ることです。神はその志をよしとみなして、召しは遠ざかるでしょう。アブラハムがイサクを捧げたように、信仰を試されることが現在もあるということです。
いかなる場合にも神の召しを辞退することはできません。自分はそのように創られているのですから、ほかに生きようはないのです。
私は数々の試練を通して、これらのことを教えられてきました。今叫ばなければならないから、叫んだまでのことです。それを気違い扱いしたりすれば、神の怒りを買うのは明らかであり、復活する自分の命を失うことになります。 つづきます。
ボートですが、この詩の原形になっているのは、幻に見たイスラエルのガリラヤ湖です。それは強烈な幻で、ボートに白衣の人が立って、岸に寄って来ました。脚の方は靄に包まれていたと思います。私は岸に立って、そのボートが来るのを待っていました。白衣の人はしきりに手を差し伸べて、私も手を伸ばしていました。ボートはもどかしいほど遅くて、私は必死に手を伸ばします。手が触れたかどうか分からないうちに、その人は消えてしまいました。消えた人がどこに行ったのか、私は絶えず気にしていました。私が岸に立って、その人に手を触れようとしていた息詰まる緊張感が、ありありと記憶に残っています。

キリストの幻は、もう一つ見ています。こちらは真昼間の東京の、文京区路上です。
交差点を挟んで向こう側に立って、真っすぐ私を見ていました。貧しい身なりで、顔だけが輝いていました。神々しいため、まともに見ることができず、私は目を逸らしてしまいました。その人は人々の後方に控えるように立っていましたので、信号を渡ってくるようには見えませんでした。私がそちらへ渡っていけば、まみえることができると思っていました。ところが渡っていざ顔を上げると、どこにもいなかったのです。
神はこの二つの幻を通して、二つのキリストの姿を教えたのです。一つは二千年前にイスラエルに現れたキリスト。そしてもう一つは、〈私は再び来る〉と約束したそのキリストです。こちらは白昼の路上に、覚めた状態でみたのですから、既に来ているのです。そして私の耳に神の声が聞こえるようになったのは、この時からなのです。
その神の声は、既にキリストはこの世に来ていると言ってきかないのです。しかもこの日本にです。私が見たのは幻であったかもしれないけれど、貧しく小さなものになってきていることを示すために見せたというのです。
このことを教会に行ってみなに告げても誰も信じようとしない。聖書でキリストは栄光の雲に乗って来るとあるからと、空ばかり見つめている。いくら天を仰いでいたって、絶対そんなところからやって来るわけないのです。再び来るといっているのですからね。再び来るというからには、聖母マリアの胎を借りて生れてきたと同じように来るというのです。来るというより、既に来ているのです。そう神は語って譲らないのですから。
栄光の雲に乗って来るのであれば、誰もが信じて、滅びなどないでしょう。悪いものだって信じます。
聖書では、盗人のように来るともなっている。我こそは主であるなどと言っては来ない。あちこちで偽キリストが現れたという噂を聞くようになった、そんな渦中に卒然と現れてくる。見栄えのしない、貧しい姿で、教会とか、街の中とか、駅や路地に、誰にも気づかれずに歩いている。しかしこれは救世主キリストにとって、決して本意ではないのです。なぜなら彼は、羊と山羊を分けて、羊に復活の命を与えようとして登場してきたからです。長い下積みの生活を余儀なくされ、今父なる神の厳命を帯びて、自らを現わさざるを得なくなったのです。
といって、〈私はキリストである〉なんて叫んだところで、誰も信じない。世の嘲笑を買うだけです。
では人類は、どうやってキリストを見分けるのでしょうか。このときこそ、人間は真価を発揮するときなのです。その人の中に住む神の霊が、キリストを指し示すのです。といってもそんなに明快に教えられるわけじゃない。それでも色々の機会に示そうとするものです。声を聴くことはできなくても、人と人とを出会わせてみたり、不自然なほど偶然の一致が重なったり、時には災禍に見舞われたり、事故に遭ったり、そういう中で教えようとするものです。わけの分からないことを叫んでいたけど、あの人こそキリストだったのでは。そんなことを考えているとき、いきなりテレビに、クリスマスツリーが映し出されたりするものです。とにかく、その示し方は千差万別です。そして、そうだと確信させてくれるものこそ、神の霊なのです。
再びボートにもどります。場所は日本の湖としました。神がそういうからです。エルサレムに登場したキリストは雌ロバに乗っていました。二千年後の現在は、ボートにしました。ボートは、前に触れたように花嫁です。ボートは間もなく岸を離れて行きます。何千年も前からの神との約束が成就するときです。花嫁は言う「主イエスよ、来てください」と黙示録最終章には書かれています。

角笛の高くとよもすとき至り出航の船岸壁に寄す
2001.9.11
この歌は、2001年9月11日、ネットに発表して二時間後、テレビをつけると、高層ビルの一つにジェット機が突っ込み、白煙を上げている映像が流れていました。
歌の中の船は小さな舟、ボートではなく、大きな船です。ということは、このときから
〈再び来た〉イエス・キリストを信じる者の救出ははじまったということでしょう。
ただ、救出といっても、いのちの復活に与るためには、「ボート」の出現を待たなければ
ならないということです。神が私に与えた預言であったと受取っています。


kaz さま。
Kazさま。投稿作にまで足を運べずにいて、申し訳ありません。実はここに来るだけでせいいっぱいなのです。こんな所に入り込んで、というよりは入り込まされて、必死にもがいているところです。客観的に自分の愚かさが目に見えるのに、どうしようもない。悪あがきといったところです。しかしかすかにでも、光明が見えるからこそ、こんな書き込みをしているのでしょう。現代詩とは関係ない、こんな書き込みを許している、ここの主催者の大きさに感謝するとともに、もし豊かであれば、一割は寄付したいところです。いや、正直に。こんなことを言えるくらいだから、たいした挫折ではないと自分でも思うのですが、足元を見ればお先真っ暗、なんとかここから這い出そうとしてこれを書いています。もし私に、ドストエフスキーほどの筆力と頭脳があったら、何千枚にも及ぶ長編小説が可能なテーマを抱え込んでしまっています。あり過ぎて、こんな掲示板の片隅ですら、書き進められなくなっています。
実は、「わたしは、アルファであり、オメガである」の、月見る花代さんのところで、同じように叫びはじめています。Kazさんにはぜひそちらも、読んでいただきたい。そちらとここと、併せて一本といったところでしょうか。
もし私を苦境におとしめているものが、悪魔であれば、悪魔祓いとかで、対処もできるのでしょうが、宇宙の創造主、全能の神なのですからどうしようもないのです。私を地下に閉じ込めて、何かを訴えようとしています。それが少しの人にでも理解されなければ、私はここから出られない。卑屈に掲示板の隅に閉じこもったりしないで、堂々と表で論陣を張ればいいじゃないかと言われるかもしれない。
しかしそれはこれまでやってきたのです。教会で、牧師や、役員や、神父や、ときにはシスターとも闘ってきた。それでことばに、習熟し、ことばに敏感な集いであれば、分かって貰えるかもしれないとここにやってきた。一人私の思いだけではなく、神がここに追いやった。  まだつづきますが、気長に気楽にお付き合いください。

私は今ここで、登校拒否、自閉症、いじめられっ子、時には犯罪の仮想加害者意識までかぶせられて、落ち込んでいます。神が人間のあらゆる憂患を負わせてくるのです。人の痛みを味あわされているのです。一体何のためでしょう。全て父なる神の仕組んだものです。人に教えるためです。恐ろしいです。神のすることは。
発端は月見る花代さんの「現Fについて」という記事でした。月見るさんはポイント0を問題にしていますが、ポイント2でも、私なら大いに打撃です。
〈ポイントなんて水物で、所詮たいしたものじゃないと、一切動じない人もいますが、そういう人は尊敬に値する〉
というのは、過去ポイントくれた人が退会したりして、0とか1になった作品を、いくつか削除したのですが、それを自分の現在16ポイント得ているのと比べて読み返してみると、過去作の方がいいのですよ。いかにポイントなんて、曖昧なものか。にもかかわらず、弱いものは、その評価を自分自身に突きつけられたように受取ってしまう。本当の自分を理解されないということは、辛いものです。私はそのことを教会に通っていたときのことが重なってきてしまったのです。神から託されたメッセージを教会、教会で語ってきたのに、理解するものがいなかった。
それは、ここへきても、状態が改善しているとはいえない。それが痛烈に私を打ちのめしてきた。ともにいる神が一緒になって怒りだし、ついに飽和を過ぎてしまった。そこで私は狭い掲示板に閉じこもってしまった。実際、登校拒否児にとっては、一点の曇りがあるだけで、出てはいけないのです。
ただ私の場合は、作品を理解せよというのではない。ポイントをくれと言っているのではない。私が語る神から託されたものを、いい加減理解しろよ、それはあなたたちの命のためなんだぞ、というわけです。この神のメッセージを蔑ろにして、生き残れるものなんて一人としていないのですから。はっきり言って、いい詩を書いているどころではないのです。いや、いい詩を書くのはいい。もっと神の愛を、神の哀しみを、神の苦しい呻きを汲み取って、詩を書けというわけです。 また書きます。
これで終わりですから、そう嫌がらずに読んでください。詩と論文とどちらがいいとかいう問題じゃない。神がKazさんに書けというから、そうしているだけのことです。これでも大きな恵みだと思ってください。いやしくも、神なのですよ。Kazさんの創造主なんですから。これが神からでなく、悪魔からの命令だと、大変なことになるでしょう。そのいい例が、キリストを十字架に送ったイスカリオテのユダです。最近ユダの福音書なんてのが、書店に出ていて、ユダがキリストを裏切らなければ、人類の救いの道は築かれなかったのだから、ユダは天では高い位が約束されているなんて言われているようですが、決してそんなことはない。地獄へ行くのはきまっています。神がそう語るのですから。
問題は、どういうコマとして使われるかで、値打ちはきまってしまうのです。
Kazさんがどう思おうと、神からきているメッセージなのですから、恵みなのです。Kazさんが神に目をかけられてしまったのは、今はじまったことではない。私の最初に投稿した「裸電球」を杉菜さんの作品の中では一番いいと言って下さったとき、既に神の霊に捉えられていたのですよ。何故あれをいいと感じたのか、真昼間に田舎道にぽつんと灯っている裸電球なんて、まったく見栄えがしない。あるとさえ気付かない。知っているのは、蟻だけだと言っているのです。少なくともここでは、Kazさんはアリの立場で裸電球を見ている。
これは神が働いて、Kazさんにそう思わせたんです。そうでなくて、天然にKazさんの目で見ていたのなら、今私がここで誰の目にも留まらないような愚行をしていることだって、理解するはずだ。論文より、詩の方がいいなんて扱い方はしないはずだ。これは文学として、感動してもらおうなんて考えはこれっぽっちもないからです。
さて、裸電球ですが、そこまでKazさんに評価されたことは、私としては嬉しい。たとえ神にそう思わされたのだとしても、いや、神に取り扱われたからこそ、嬉しい。聖書も読んでいないし、その類の本なんか読んでいなくても、神は一瞬のうちに、人間を透視してしまうのです。
その神が私にこれを書かせているのは、もっと先を読めということなのです。数匹のアリにしか知られていない裸電球こそ、キリストだというのですよ。その状態で今来ているというのです。裸電球は裸の王様であり、それがキリストだと言うのです。
これはいささか無理と感じつつ、小詩集「雪の扉」の作者のメッセージにも書きましたが、ヨハネ1の1にも通じている。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」
これです。ここでことばとは、キリストのことなのです。ことばなのだから、詩人フォーラムにも出入りしていて、Kazさんの近くにいるのかもしれない。やっぱり裸電球みたいに、気づかれないで。しかしKazさんは裸電球を認めた。いや、認めさせられたのだから、あとは聖書を読んでみるくらいはして欲しい。
これは一人Kazさんだけに言っているのではない。いくら隠れていたって、誰かはここに連れてこられるはずだ。神が連れて来るんです。まったく本人は気付かずに、連れて来られるんです。私はそういう誰か分からない人にも期待を寄せているんです。これで終ります。神からきていることだから、謝りません〈笑い〉。ご清聴ありがとうございました。





未有花さま。ありがとうございます。
 
やぎしきさま。ありがとうございます。
 
鎌田 正文さま。ありがとうございます。
 
緑川 ぴのさま。ありがとうございます。
 
こめさま。ありがとうございます。
 
ぽえむ君さま。ありがとうございます。
 
LEO さま。ありがとうございます。

石瀬琳々さま。ありがとうございます。
>ボートに乗せるもの、想像がふくらみます。

重いお言葉です。

ルナクさま。ありがとうございます。 

ふるるさま。ありがとうございます。  

梓 いっせーさま。ありがとうございます。  

前田ふむふむ さま。ありがとうございます。

坪居 拓野さま。ありがとうございます。

水在らあらあさま。ありがとうございます。
 

もも うさぎさま。尊い寸評とポイントです。ありがとうございます。  

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