ヒューム「ベルグソンの芸術論」(1)/藤原 実
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 佐々宝砂 
ひさびさにここで面白い散文を読みました。
- いとう 
- 前田ふむふむ 
- 焼石二水 
- 「ま」の字 
 大変良かったです。私のようなこの方面に無学な者にも、分かるようにまとめられていたと思います。

 個人的には

 言葉が「客体」であることが本当に出来るのだろうか? という疑問、というか突き詰めの不足が在るようなないような気がしました(藤原さんの論旨が不明瞭という意味ではなく、ここに書かれている主張そのものに対してもったモヤモヤです)。ここで言われている「客体」としてのコトバは、多くは「文法」更にはそれを大きく包摂する「流れ(連結)で表意する」という考えへの否定と捉えた方がよくはないか? 

 というのも、「イメージ」も、大きくいえば「意味」だと思うからです。ここで言う「客体」としてのコトバは、日常的な意味からは解放されてはいても、「単語」としての意味は失っていないように思うからです。単語としての意味が失われていないのなら、ではなくなったもの(日常的な意味)とは何か? 文法、あるいは日常的類型的な他単語との関連性(「魚」と来ると「海」「川」「食べ物」の話なんだろうという予測が立つがそのような、決まりきった予測としての他単語とのつながりの可能性)だろうか? そうすると、先ほど「文法」といったが、これも日常的論理性に基づく既成文法でない、他の論理性を持つ「文法」の創出ならいいのかもしれない。 「他との関連性(流れ、あるいはつながり)」の否定ではなく、新しい関連性の創出という可能性もありうる。 ただ、それでは詩は更に難解なものになるのは不可避でしょうけれど。

 ここに書かれている主張の目ざしたものは、論理としての文法は既成のものを使用し、そこにはめ込む単語には類型性(流れ)を拒否させる事。すなわち既成(日常)とそうでないものとの併用により、日常とのズレを際立たせる。ということなのかもしれません。

 なお、付言すれば、アリストテレスやホラティウスの昔から、「ありもしない話」「直接見たわけでもない話」を書くことは文学には当然のこととされていたはずで、言葉というものが単なる現実描写・現実の後追いをする道具ではなく、コトバだけで何かを生み出す、すなわち「ウソをつく(虚構を書く)」道具でもあるという認識はあったと思います。今回のお話は文学という「価値あるウソ」がどのように拡大して行ったかという話であり、その意味で、長い文学の歴史に違和感なく位置づけることも可能なのだと思いました。
- 岡部淳太郎 
- んなこたーない 
- 青色銀河団 

訂正履歴:
改行など修正06-9-27 4:05

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