現代日本の専門詩誌における「難解さ」の制度的生成/atsuchan69
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
-  
- 鏡ミラー文志 
丁度昨日、呉智英著作の『吉本隆明という共同幻想』を読んでいたところです。
吉本さんの文章は難解を極め、その難解さこそが評価される所以でもありました。
理屈は多く矛盾を孕み、その矛盾に目を瞑り、多くの人々は吉本さんを支持し、影響まで公言した。
知識を持っていることは魅力ではあるけれど、難解さそのものを武器にすることはいいことではないと思います。

そういう閉鎖的な世界を作ることで、自分達の価値の確認や、特権意識のくすぐり合いをして成り立つ世界。
大衆というのは専門という分野に自分たちを押し込め、それを疑わない人々のことであるという言葉を思い出しました。
餅は餅屋と言うけれど、外へ行けばパンを売っている人に出くわすこともある。時にはパンについて考えることが、餅を多く売ることにつながることもあろうかと思います。
その視野を失わないまま、専門分野を同時に持つと言うことが大切なように、思います。
- 室町 礼 
詩の投稿板なのに批評が少ないので
こういうものは貴重だとおもいます。
---2025/12/11 03:46追記---

吉本隆明についてですが、彼ほど知識人をバカにして
無知な大衆を信頼した人はいないのですがね。
ですから学のないわたしでもすぐに吉本のいい面が
理解できたし、もっとも印象的で象徴的な挿話は、
映画『最後の博徒』のモデルである伝説的な博徒・
波谷守之が刑務所のなかで吉本隆明を読んで、
「こいつはホンモノだ!」と叫んだことです。要する
に思想というのはある必然性がなければわからない。
学問として大学で勉強する類の思想はそもそも
知識人用の思想でありまして吉本の思想はそういう
ものとは隔絶しています。呉智英のような三流コラム
ニスとごときがそもそも相手にできる相手じゃない
のじゃないかと思っています。ただ、吉本が資本主義
体制の下でものを書き、売っていることに忸怩たる
思いをしていたことは間違いのないことで本人は
パチプロになりたかったと告白してますね。
「野性時代」に掲載されたアンケートの「もう一度生
まれかわれたら何になりたいですか?」という問いに
「もうごめんだ」と語り、「方位をまちがえたかもし
れないのに/生き残ってしまった」(『最後の贈りもの』)
と詩に書いてます。
ただ、パチプロになるにはパチンコ台のとりあいがあり、
それが吉本には出来なかった。それで売文のほうへいった
と述べています。共同幻想論はわかりやすい画期的な
思想なのに遠野物語なんかをベースにしたのが大失敗で
すが、当時はおフランスの外国思想ブームで、それに反発
してわざと
日本の古代物語をベースに語ったといってます。これが
難解さを読む人に植え付けた。これはわたしも大失敗だ
と思いますが、他の本を読めば共同幻想論がたんに人間
の意識の在り方の構造を世界ではじめて開陳してみせた
画期的な思想でこれは向こう100年のあいだはまだ
だれにも理解されないけどいずれ必ずその思想がどれほ
ど偉大であったかわかる日がくるはずだと思っています。
- 田中宏輔2 
- おまる 
- wc 
凄く難しかったです汗

個人的に
ドライブとホメオスタシスかなあ、、

こんな感想もあっても良いかな
と思って、思い切りました
 
作者より:
海さん、ポイントをありがとうございます。

鏡ミラー文志さん、ポイントをありがとうございます。

ご丁寧なご感想をありがとうございます。

吉本隆明についてのご指摘、とても重要だと思います。
まさにおっしゃる通りで、彼の言説は時に内部矛盾を抱えつつも、その「難解さ」自体が魅力や権威の源泉として機能してきました。理解の困難さが“深さ”や“思想性”として受容される状況は、まさに本稿で述べた制度的承認の構造と重なります。

>知識を持っていることは魅力ではあるけれど、難解さそのものを武器にすることはいいことではないと思います。


この一文は、本質を突いていると思います。
難解さが偶発的に生じるのではなく、権威や影響力を保障する装置として利用されるとき、フィールドは閉鎖性を深め、内輪化を促進します。その結果、「読者がついてこない」のではなく、「ついてこれる読者だけを選別する」という制度になってしまう。

>そういう閉鎖的な世界を作ることで、自分達の価値の確認や、特権意識のくすぐり合いをして成り立つ世界


これはブルデューの「区別のための差異(distinction)」の機能そのものですね。
吉本的言説空間は、象徴資本の競争が最も露骨な形で行われた場でもあり、難解さがその象徴資本の主要な通貨になっていたと言えるでしょう。

また、

>餅は餅屋と言うけれど、外へ行けばパンを売っている人に出くわすこともある。

という比喩は非常に示唆に富んでいます。

専門性を守ることと、閉鎖性に陥らないことは本来、両立可能なはずです。
むしろ、異領域からの視点や方法は、専門内部の陥穽(バイアス・ルーティン・自己正当化)を攪乱し、新たな生産性をもたらすことがある。

詩の世界においてもそれは同様で、外部の言語環境(SNS、批評、他ジャンルの表現)が流入することで、フィールド内部の規範を問い直す契機が生まれるはずです。

ご指摘いただいた

「視野を失わずに専門分野を持つことの重要性」は、本稿の結論と響き合うものであり、「制度の自己保存」を超えるための大きなヒントだと思います。

貴重なコメント、改めてありがとうございました。


室町 礼さん、ポイントをありがとうございます。

詩というジャンルは、ともすれば孤独に書き、孤独に読まれるものになりがちですが、誰かの言葉が届いた瞬間に初めて開かれる回路があります。室町さんの言葉は、その「開かれた回路の希少さ」と「批評が共同性をつくる」という事実を静かに指摘しているように感じられます。

批評が少ない場所ほど、一つのコメントが場の空気を変え、他の読者にも「読んでいいんだ」「反応していいんだ」という気持ちを促すことがあります。室町さんのコメントは、そうした健全な循環への小さな火種であり、コミュニティの未来に向けて示唆的なものだと思いました。


---2025/12/12 05:27追記---
吉本隆明って、知識人を突き放しながら、大衆の感覚をすごく信じていた人ですよね。だからスッと読めるところがあるし、博徒の波谷守之が「こいつはホンモノだ」と言った話も象徴的です。

共同幻想論を遠野物語で語ったせいで “難解” のイメージがついてしまったのは、本人も失敗だったと思っていたみたいですね。
それでも、彼の思想は100年スパンでだんだん理解されていくような、そういう大きさがあるんだと思います。

田中宏輔2さん、ポイントをありがとうございます。 
紅茶猫さん、ポイントをありがとうございます。 
おっしゃる通り、エモーショナルな詩にも 難解な詩にも、それぞれ固有の魅力があります。

これはまさに「受容の位相」の違いで、どちらかが優れているのではなく、異なる読者経験を提供する二つのモードだと思います。

詩がひとつの方向だけに閉じるのではなく、異なるスタイルが共存し、それぞれが違う回路で読者とつながる。そうした多層性こそが、詩の世界を豊かにするとボクも信じています。

おまるさん、ポイントをありがとうございます。
wcさん、ポイントをありがとうございます。 

> 凄く難しかったです汗

今にも消えそうな
小さな蝋燭の炎を守るために、
権威を風よけにして
装置としての「難解さ」を維持しなくてはならない人たちの
じつに苦しいやりくりを
なるたけ蝋燭の灯りを消さないように、
出来る限り判りにくく
論文っぽい文章にしてみました。

















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