長い漏電/ホロウ・シカエルボク
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- おぼろん 
ボードレールとかランボーとかブルトンとか、散文詩の歴史も色々ですが、今回の詩には富永太郎のような、諦観と哀愁が入り混じった感覚を覚えました。「配電盤」ですとか、「間違って感情を持ってしまったレンズ」ですとか、無機物に対する共感、というのが詩情をよく表していますね。「授業を離れた教師の話は不思議なほど面白かった」から「二度と話しかけてはこなかった」に至る断絶の思いに、強く共感します。わたしも多分そんなだったなあ、と。「血が流れるから生きているのなら大抵のものが生きている」という潔い決断の思い……散文詩って、乱雑な中に何かを求めるものなのですよね。わたしにはホロウ・シカエルボクさんのような長い詩は書けませんでしたが……。最後の「それから配電盤を蹴っ飛ばした」の部分、いくつか前の詩で、ホロウ・シカエルボクさんは「人間ってディスコミュニケーションだと思う」とおっしゃられていましたが、無機物にもそれを拡張したのでしょうか。「それは世界の拒絶ではないのか?」と焦ってしまう自分がいます。すなわち、この詩は読者に戦慄を与える。戦慄の効能も様々ですが……。読者はただ作者の必死さに思いを致せばよいのか、それともそれを批判し乗り越えていくべきなのか。いやいや、留まるべきなのだな、作者といっしょに。こんな詩は昭和初期にもあった……などと感慨を抱きつつ。一年くらい前のホロウ・シカエルボクさんの詩はかなりロックだったと思うのですが、そのロックさえもかなぐり捨てたのかなあ……などと思ったりします。個人的には、富永太郎の詩に似ていると書いたように、入りやすい詩でした。

追記です。なるほど、物のほうにこそ「きちんとしたコミュニケーション」がある……。そう言われてみると妙に納得させられるものがあります。
---2022/09/16 07:27追記---
 
作者より:
〇おぼろんさん

僕いつも何も決めずに書き出して、出てきたものに任せる感じなんですけど、今回は配電盤と男というものが早めに出てきたので、そこから広げていった感じです。あの産卵とかのシーンも回想シーン終わるあたりまでまるで頭に無かったんですよ。文体に関してはそういう、物語性のある題材だったので書き殴りつつも少し手を止めて直したりしてたのでこういう感じになったのかと。富永さんの詩は読んだことないんです。本屋で見かけたら読んでみようかな。

「世界の拒絶ではないのか」というフレーズには一瞬…狼狽えましたね(笑)そういう視点をもったことがなかったので。だけど、目的の為に生み出される機械って、ある意味で人間同士よりもきちんとしたコミュニケーションが存在しているのではないか、という気もします。拒絶というよりは、視点の中での優先順位が違うのかも。

ロック的な感じは多分…詩人PVっていう音つき朗読をやっているので、そっちの方に流れて行っちゃったかな。でもこれ書いたときは、ミニストリーっていう結構激しめの音楽を聴いていたんですよ。不思議ですよね。

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