統一自称詩人協会/花形新次
 
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以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- 山犬切
花形さんが吉本隆明の大ファンなのは存じてますし、僕も吉本の大ファンなんですけど、
おそらくあなたと僕が違うのは僕は吉本以外にも結構批評全般に目を通してるし
通そうとしてるところじゃないかと思うんですね。
佐々木敦っていう吉本とは全然世代も批評の対象も違う、最近の批評家の人がいて、
その人の著書に「私は小説である」っていう本があるんですけど、その序文が面白いというか興味深いんです。
多分花形さんも面白がるなと思うんで、引用します。

>私は小説である。
>(中略)
>あらゆる小説は、最初の一文とともに、いや、最初の一文よりも前に、いわば言葉にならない前口上というか、
>叙述の開始の宣言として、常に必ず「私は小説である」と語っている。
>たとえ一見、小説とは思われないような始まりや体裁をしていたとしても、それが最終的に小説であるのならば、
>言外に、言葉の前に、必ず常に「私は小説である」は潜在している。

小説っていうのはそれが始まるまえ、言外、余白において「私は小説である」と宣明していると。
花形さん風にいえば、小説はみな最初に"私は小説である"と「自称」してるんですね。じゃあ詩も同じなんじゃないか。
だけど、詩が小説と大きく違うのは、ひとがそうやって「私は詩である」と言外で宣明して詩をネットに投稿したり発表したりするんだけど、
それらの多くが花形さんなんかに「自称詩」つまりまがいものっていう袋の中に入れられちゃうところだと思うんですよね。
小説投稿サイトで花形さんみたいな活動をしてる人はまずいないんじゃないでしょうか。
そこ(「自称」がすぐさま「他称」「通称」に転化するか否か)が現代の小説と詩のかなり大切な分水嶺なんじゃないかと最近思って。
まあ考えたことをこんなところで書かせていただきました。

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