日々/飯沼ふるい
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- ただのみきや 
- flygande 
ここに書かれているうちどのくらいが実際にふるいさんの身に起こったことなのかは推して測ることもできませんが、そんなことも関係ないくらいに、この「ぼく」の歩んできた日々を思い、また、私がいま数分のうちに読みあげられる「ぼく」の日々が、どれほどの凝縮を受けてこうして詩として言葉として刻まれているのかを思いめぐらしています。詩は孤独な言葉で、私はそれを通り過ぎる(読んで過ぎていく)ことしかできないのだけれど、すれ違った人がどうして記憶につよく残ることもある。鑑賞物というよりは、なぜか忘れられない思い出のようにこの詩を読みます。創作物であることをうっかり失念し、たとえば体の不調が書かれれば心配をして、たとえば籍を入れたと書かれればお祝いを述べたいくらいに。それがテクニックのための虚構であっても、飾りもしない丸のままの日記であっても、屈折して描写されるそれらはすべてふるいさんのなんらかの断片であろうから。表現について言えばどこも素晴らしいのですがオチをつけようと述べた後のこのオチには本当に胸を打たれてしまいます。このフィナーレに私は何かへの憧れを一旦置いていくような寂しさも感じるけれど、それは不幸な終わりではないと思う。今のところ私たちの日々はつづいていくのだから、その日々を描く詩を閉じること自体に相反があるのだけれど、諦めのような、しかし希望のような余韻が残されているから、それはつづいていくことの失望でもなければ死でもない、そんな気がします。こんな詩が年にひとつでも、いや数年にひとつでも書けるうちはその人はずっと詩人だろうという物言いは差し出がましいかもしれないのですが、私もこんな美しい詩が書けたらなとやっぱり今でも思います。過ぎた感想を述べたかもしれません。失礼しました。読めてよかったです。
---2017/07/30 00:23追記---
---2017/07/30 00:33追記---

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