以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- - 石川和広
- - 田代深子
- ご批評ありがとうございます。(うはー照れるー)
作品には生真面目な私ですが、あるいは確かに「適当にちぎっては投げ」した言葉の断片が、磨き上げた詩よりおおきな力を発揮することを知ってはいます。たとえばここ1週間で短歌に味を占めました。これはなかなか面白く、なぜ面白いのかといえば、思いついた言葉の断片に演出と彩りを与えると、言葉はおそろしく身勝手に物語を反射しまくるからです。期せずして割れたガラス器の、おおぶりの破片のような、見応えのある乱反射。
しかしながら、生真面目にも私は、詩を鍛することへの拘泥を捨てる気になっていません。捨てる気、というか、まだまだ私は、詩を突き放せるほどには詩を書いてはいない。私が書きたいのは何なのか。いや、「私が書きたいこと」を書くわけですが、詩を書くことで為したいことは何か。誰かに私の「感応」を伝播できないものか。言ってみれば、この感動を伝えたい、と(笑)ひとの胸付く言葉はどこから生まれるのか。あるいはこうした拘泥からは生まれてはこないのか。そうかもしれない。取り扱っていただいた3作品は、Jacoさんが看破された通り、拘泥の歯噛みを、地団駄を、くぁっと書いた感があり、「語る私」「書く私」のぐるぐるです。
しかし地団駄踏みつつ、やっていこうと思います。ときどきくぁっとしながら書き続け、いずれはたと、髪切ろうかと思い立つほどの驚きと自然さで、ちがう書き方が起こってくるものか…
先は長そうです。しかしどうぞ、おつきあいください。これからもよろしくお願いします。
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